捨てる手さばき
-布を断つ-
(大学院)工芸デザイン分野 山田 美恵 (Yoshie Yamada)
●制作研究の概要
本研究は、私自身が布を用いた染色作品を制作してきた経験をもとに、限りあるものを「捨てつつ生む」ことを考察した。布は脆弱な素材である一方で、汎用性が高く、即座に様子や形状を変え得る性質を備えている。そのため、布を扱う制作には常に廃棄の気配が内包されており、作品をつくる行為そのものが「捨てる」と不可分である。この前提に立ち、「使う」「想う」「断つ」「捨てる」を一連の過程として捉え、使用者でもある制作者が持つ主観的かつ客観的な視点を踏まえながら、日用品が作品へと転化する可能性を導き出すことを目的とした。
第1章では、素材を扱う使用者の視点から、「使う」行為について考察した。ふきんをはじめとする布製の日用品は、技術の発展とともに独自の変遷を遂げてきた。その結果、用途の選択肢は広がったが、単に機能性や価格のみを基準に選ばれているわけではないことを示した。
第2章では、時間の意識から生じる主観的な「想う」感情と、ものとの関係について論じた。使用者にとって、長く使えるものよりも脆いものの方が「わたしたち」に近く、主観性を生みやすい。一方で、布が持つ主観性は、見る側の客観性を失わせることもある。その結果、たとえ一枚の布であっても、複数の立場から想いが重層的に重なることがわかった。
第3章では、第2章で述べた「想う」が、他力の介入によって「断つ」行為へと向かう過程を検証した。日々の営みを直線的に積み重ね、「なぜ」とあえて問わない態度から生じる一定のリズムを「手さばき」と捉え、美術や工芸に通じる姿勢として考察した。さらに、人とものの関わりには、仏教の修行にも通じる普遍性が見出されることを示した。
第4章では、自身の制作を通して、「捨てる」行為について改めて整理した。ものを介した経験は断片的に次へと継承されるため、「捨てる」とは単なる消失を意味するわけではない。ものに結末を与えることで新たな空間や余白が生まれると捉えれば、時間の経過とともに素材が変容すること自体、創作活動が次の段階へと向かうための過程であることを示した。
●制作研究の背景・位置づけ
これまで、ナイジェリアのヨルバ族に由来する染色技法を用いたタペストリー作品を制作してきた。ALABERE(アラベレ)やELELO(エレロ)といった防染方法は、制作過程で布への損傷を伴うと同時に、色をのせて開くまで染まり具合を確認できないため、失敗も生じやすい。また、日本の高温多湿な環境下において、作品の保管も大きな課題であった。こうした経緯の中で、制作の過程で生じる廃棄や、自身の望む素材や技法に対して十分に向き合えていなかったことに気づいた。この気づきは、本研究に先立つ前段として位置づけられる。本研究では、制作者とは切り離せない「捨てる」行為だけでなく、素材の使用者として「使う」ことについても再考し、そこから明らかになる創作の本質を見出すことを意図した。
本研究では、布の主体性を使用者のみに限定せず、複数の立場からの視点を提示するため、制作者を含む複数の存在を重ね合わせる事例を取り上げた。併せて、「限り」の意識を伴いやすいものと、必ずしもそうではないものから生じる主観性と客観性の往還に着目し、その構造が日本に伝わる寓話的物語や、現代美術におけるソフト・スカルプチャーにも認められることを示した。さらに、ガーナの装飾棺桶およびシュルレアリスムのコラージュを参照し、「想う」行為がいかにして「断つ」行為へと移行していくのかを整理した。これらの考察を通して、「生みつつ捨てる」に至る過程を明らかにするとともに、日用品や廃棄物によって構成される作品を対象として、再利用とは異なる、直線的な過程に伴って成立する行為としての「捨てつつ生む」という自身の制作テーマの在り方へと議論を展開した。
「用」と「限り」が混在する布は、使うことと捨てること、あるいは、つくることと捨てることの双方の可能性を内包している。再利用に見られる円環的な思考をいったん脇に置き、捨てることをゴールとした「直線的な」作品づくりは容易ではない。しかし、その過程で、「自」と「他」を切り離すことによって小さな隙間が生まれる。その隙間の中で、布の主体性を認めつつ、より能動的かつ心地よく暮らそうとする営みには、密やかでありながら確かな安らぎが現れる。以上のことから、本研究は制作者の視点を広げると同時に、素材として布が持つ新たな可能性を示す試みとなった。
●作品について
《さよならふきん I, II》は、ふきんの抜け殻を表した作品である。使い潰されていくふきんは、「九相図」に描かれた美女の変容を思わせる。新品の時は清潔な白色をたたえて肌理(きめ)も整い、「生」の気配を漂わせている。しかし、台所での日々の労働にさらされるうちに繊維はすり減り、ほつれ、最後には網のように透けていく。それでもアクリル糸だけはその過程からまぬがれて、本体が朽ちてからもなお残る。
役目を果たし切って抜け殻になった時、そこにはぽっかりと空白が生まれる。空白と言っても、単なる欠落や喪失ではない。使い続けてきたものがひっそりと退くことによって、ようやく空いたよどみのない澄んだスペースだ。それは、暮らしの中に生まれた余裕とも捉えられる。ふと息をつける場所が、思いがけず現れたようなものである。捨てる行為も、ものに終焉を授けると同時に、生活に新たな空白をつくり出す。このように「自」と「他」をいったん切り離して生まれた小さな隙間は、ものに主体性を認めつつ、より能動的に心地よく暮らす人の営みに現れた、密やかでありながら紛れのない安らぎである。
《ふきんの他力道》は、もとは鮮やかな山吹色だった。玉ねぎの皮から抽出した染料は、ミョウバンで媒染すると黄色に発色する。本来なら台所で即座に生ゴミとして捨てられるはずの玉ねぎの皮から抽出された染料で、いったん鮮やかな山吹色に染め上げられたふきんには、かつて私自身の手形が板締め絞りによってくっきりと染め抜かれていた。手形と発色の良さから、玉ねぎの皮の素材としての用途と存在理由が明確で、具体的で、かつメッセージめいた象徴的すぎるほどの制作者の痕跡が見て取れた。一方、ふきんとして3ヶ月間使用すると、黄味は抜けて茶色味だけが残った。
使い続けるうち、ふきんの具体性と象徴性は薄れていく。山吹色は消え去り、残るのは薄汚い茶色だけだ。使い古されたふきんには、うっすらと、しかし、明らかに抜染された使用者(=制作者)の手形が残っている。これはもはや何を主張したかったのか判然とせず、ただ輪郭だけが幽霊のように浮いている。古びた手形は意味を失ってしまったのに、なぜか存在だけは居座り続ける。そこには、制作者の意図をはみ出して、どこか他力めいた佇まいが漂う。これを拡大解釈すると、「素材の力によって残された手の痕跡」、あるいは、「終わりなき手仕事」と捉えられる。《ふきんの他力道》は、その状態そのものを作品として提示した。
――偶然も無意識も、それは自然が成すことである。それに沿って歩くことは、自然に体を預けることだ。他力思想とは、そうやって自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら、人間を越えようとすることではないかと思う。私もまたそうやって拡大した自分の体の自然の中で、拡大した偶然に出合ったのだった。(赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』より)――
「捨てる手さばき -布を断つ-」
「用」と「限り」が混在するからこそ、使用者が込められる感覚や感情がある。使うことは捨てること、つくることは捨てることなのだ。
どうすればものを捨てずに生きられようか。
できはしないのである。
《さよならふきん I》25 cm×1 cm×4本 ふきんの縁 2025年
《さよならふきん II》25 cm×25 cm×6枚 玉ねぎの皮から抽出した染料で染めた綿ふきん 2025年
《ふきんの他力道》25 cm×25 cm 綿ふきん・玉ねぎの皮 2025年
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