文芸表現学科

教員がいま語りたい、いくつかのこと【第三回・木村俊介先生】

こんにちは、文芸表現学科です!

 

 

文芸表現学科の先生方に執筆していただく「先生ブログ」。

第三回は数々の取材、執筆を経験されてきた、ノンフィクション作家の木村俊介先生です。

 

 

ゼミの二回生の様子、ご自身の経験と本の中のことばを重ねて、受験生はもちろん、在校生にとっても、ためになる深いお話をしてくださいます。

 

 

(以下、木村先生による執筆)

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  • ●ゼミの中の「空白時代」

 

このブログを、大学に興味のある大人だけでなく高校生も読んでくれる中には、大学のゼミってなにをするところかと思う人もいるかもしれない。

少人数制の演習としてのゼミの実態は大学や教員によって変わるものの、この学科でいえば、二回生の秋から入り、卒業まで自分らしく作品や企画をつくる拠点といったところだ。

 

 

人の長所を聞く仕事をしてきたぼくは、ゼミでも学生を肯定して楽しく書いてもらっているけれど、いまは新しく入ってきた二回生たちがおもしろい。

一晩の執筆でさえ、文体から本人の存在感まで「変貌」するのだ。

記事を書く学生の取材に同行したあとに「これまで行ってきたどの美術館よりもおもしろかったです」なんて感想を聞いても、はじめての体験に心が開かれているなとハッとする。

後日にその人の原稿を読んでも、出来事を自分の中で噛み締めたうえでの発見が書けるようになっていて驚いた。

 

 

真言宗の開祖・空海は三十一歳で遣唐使船に乗り、唐人からいきなり最高の知識人と遇され、密教の秘伝を授けられたという。

しかし、空海が十八歳で京都の大学に入り、まもなくドロップアウトしてから遣唐使船に乗るまでにはどんな修行をしていたかわからない「謎の空白時代」があったそうだ。

ぼくはこの話を大学のゼミで聞き、いいなと思って取材を続けて「人の空白時代を聞くという空白時代」を過ごしてきたところがある。

いまのゼミでの二回生たちも、そんな渦中にいるのではないか。

 

 

ゼミの二回生の中には、本を読む授業でノンフィクションの独特さを「なんでも掬い取るところ」と見つけ、そこから「ぶちまけるように書く」方法を鍛えた人もいる。

その人は得意とするテレビドラマの分野で公募の脚本賞を受賞し、受賞作が雑誌に載ったところだ。

ほかにも、芸術大学でこそできる染織や版画の工房への取材などを重ね、学内の美術工芸学科のブログで書いてきた記事の数々が人気というゼミ生もいる。

その人の原稿は人や作品から汲み取るものが深く、取材対象者や関係者たちに好かれ、「こんなアーティストもいるので、次に取材をしたらどうですか。知り合いなので、私が紹介できますよ」「しっかりしたレビューを書いていただいて嬉しいです。次は、この美術展も観てください」と誘いが絶えないながらも、そうした出会いも糧にして記す自作の長編ノンフィクションが、いよいよ踏み込んだ展開になってきている。

 

 

あとは、ゼミに入る前にも約半年かけて書いた小説を、この二ヵ月で九回ぐらいは根本的に推敲し、書くよりも書き直すほうがむずかしいとわかった、と言ってくれたゼミ生もいる。

この二回生は四〇〇字詰めの原稿用紙に換算して一四〇枚の初校を一〇〇枚にまで磨き上げ、文芸誌の新人賞に投稿したところだ。作品と本人からあふれる「これまででもっとも頑張って、いちばんおもしろい小説ができた」という充実感が、まぶしい。

それから、韓国語を勉強していてこのごろ検定試験に受かったのも「よかったね」という中で、いわゆる社会派な長編ノンフィクションを準備している二回生もいる。

このゼミ生にしても、学科内の合評会(年に二回おこなわれ、全学年が集まる作品講評会)で発表した作品に全体重を乗せてくる書きぶりに、しびれさせてもらってきた。

全員で九人いて、一日を一生のように過ごしている二回生のゼミ生たちの「空白時代」が辿り着く未来は、ほんとうに楽しみだ。

 

 

生業にしてきたインタビューの現場を経て思うのは、人はともすると世の中を見たいようにだけ捉え、どこに行ってなにを見てもどこにも行けていないという危険性もあることだ。

たとえば、「おれは偉い」という想念に囚われたら、人はさまざまなことがあった過去からも、「だから、おれは正しかったんだ」「だから、いまの偉いおれがあるんだ」といった筋道しか見出せなくもなりがちで、それでは間違えたことさえ認められないだろうから不自由にも思う。

ただ、長いインタビューで人の過去を辿れば、じつは本人さえうまく意味づけられていないから言葉にしづらい、でもそれのおかげで成熟も訪れたとでもいう宝物のような間違いが、誰にでも結構あるのではないかと感じるのだ。

「空白時代」とは、人が間違えるときのことなのかもしれない。

 

 

ゼミ生たちには、そんな期間にこそ、ものを書く中に長回しの取材のように飛び込んでいってもらいたい。

かつてプルーストが、

 

「ある年齢をすぎるとわれわれの想い出は相互に複雑に絡みあうから、考えていることや読んでいる本自体はほとんど重要ではなくなる。われわれは至るところに自分自身を置いてきたので、あらゆるものが実り多いものにもなれば、また危険なものにもなる」

(『失われた時を求めて 12[全14冊]』吉川一義訳/岩波文庫より)

 

と記したみたいに、記憶のなにもかもが自分の書いたものに溶け込み、なにもかもが掬い取られるぐらいまで。

 

 

 

『失われた時を求めて1 スワン家のほうへⅠ』

ひとかけらのマドレーヌを口にしたとたん襲われる戦慄.「この歓びは,どこからやって来たのだろう?」 日本の水中花のように芯ひらく想い出――サンザシの香り,鐘の音,コンブレーでの幼い日々.プルースト研究で仏アカデミー学術大賞受賞の第一人者が精確清新な訳文でいざなう,重層する世界の深み.当時の図版を多数収録.(全14巻)

(出典:岩波書店公式サイトより)

 

出版社:岩波書店

価格:990円(税込)

刊行日:2021/11/16

体裁:文庫・並製・468頁

岩波書店公式サイト:スワン家のほうへⅠ – 岩波書店 (iwanami.co.jp)

 

 

 

 

 

(文芸表現学科 教員・木村俊介/構成:学生ブログライター 1年・工藤鈴音)

 

 

 

 

 

 

 

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