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芸術学コース

2019年07月12日

【芸術学コース】近況報告―日々の発見と原三溪のことなど

横浜美術館「原三溪の美術」展看板



皆さん、こんにちは。芸術学コース教員の三上です。梅雨の悪天候が続いていますが、お変わりございませんか。そろそろ蒸し暑くなってきましたので、少し涼しそうな写真をお見せしましょう。

野毛山公園内の蓮池



これは少し前に訪れた横浜市の野毛山公園の入り口付近にある大きな睡蓮の池です。ここは幕末から明治初期に横浜で貿易商として活躍した原善三郎の邸宅跡とされており、以前から行きたかった場所でした。写真のように、池には石灯籠や石が配されており、なかなか趣のあるものでした。私が訪れた5月末はちょうど睡蓮が見頃でしたが、この時期の訪問となったのは偶然のことで、大変幸運でした。果たして本当に善三郎が楽しんだ庭なのかどうかはもっとよく調べてみないといけないのですが、とにかく嬉しい出来事でした。

私が検討してきた原三溪は、この善三郎の孫娘と結婚して原家に入籍し、事業を大きく展開させた実業家です。特に古美術の大コレクター、芸術のパトロンとしても知られています。これまでは三溪を中心に調べてきましたが、いずれは善三郎についても深めてみたいと密かに考えています。

さてこの夏、横浜美術館で開催される「原三溪の美術」展のトークイベントに参加することになり、つい先日、その関係で短い文章を『目の眼』という雑誌に寄稿しました。先方から提示された執筆テーマは「近代日本画のパトロンとしての三溪」ということで、三溪の支援した日本画家たちと彼らの作品についてまとめました。

この時、担当の編集者より、作品の購入しかしていない場合、支援とは言えないのではないかという疑問が呈されました。一般のパトロンというイメージではそういう見方もあるのかもしれません。

しかし、三溪の場合に限らないかもしれませんが、作品を購入する場合、その作家が存命ならば支援につながります。特にある程度まとまった数の作品を購入するならば、その購入は大きな支援になりうるでしょう。また、作品の購入額が大きい場合もそこに支援の意味を読み取れるかもしれません。逆に、既に購入する時点で作家が亡くなっている、つまり物故作家の作品を買う際は、支援というよりは愛好者、コレクターとしての購入になります。

三溪は明治26年から昭和4年にわたり、「美術品買入覚」と題した作品の購入記録を付けていました。三溪は古美術の大コレクターでしたから、古美術品の購入はもちろん、同時代の美術作品についても記録していました。この記録によると、三溪は橋本雅邦、菱田春草のほとんどの作品を没後に購入していました。したがって、これらを支援者としてではなく、コレクターとして購入していたということが出来ます。これは従来の芸術のパトロンとしての三溪像に新たな一面を加えたと言えるでしょう。

また三溪は横山大観、下村観山の作品も多数購入していました。三溪が購入した当時既に売れっ子作家として活躍し始めていたことから、彼らの作品についても愛好者としての側面が強く感じられます。

「美術品買入覚」によると、三溪旧蔵近代美術作品のうち、大観によるものが数、金額とも最高だったため、三溪は大観作品をとても好んでいたことが分かりました。例えば《柳蔭》(大正2年、東京国立博物館)は、三溪が大観に依頼して三溪園内で描かれた作品です。三溪はあまり注文制作をしていないため、注文であることがはっきりしている貴重な作品のひとつです。《柳蔭》の制作年が近年確定したことについて、以前に以下のブログで取り上げましたので、興味のある方はこちらも御覧ください。

【芸術学コース】作品の制作年と作品解釈について―横山大観筆《柳蔭》をめぐって


大観は三溪からの制作支援を断ったと自伝で述べていますので、むしろコレクターというほうがふさわしいかもしれません。しかし観山に対しては、三溪は制作支援として住居も用意するなど手厚く支援しました。以前から三溪は観山を最も好んだと言われてきましたが、「美術品買入覚」にも多数の購入が確認されました。さらに近年の研究で、三溪への支援の返礼として多くの観山の代表作が寄贈されていたことや、支援が関東大震災後途絶えたのちも、三溪と観山が頻繁に交流していたことが明らかにされています。これらのことから、三溪が観山の充実期の制作を支えたと言えるでしょう。

今回の雑誌記事では取り上げませんでしたが、三溪は平櫛田中、佐藤朝山などの近代木彫家たちの作品も多数購入していました。「美術品買入覚」の記録にあったこと、さらに東京国立博物館に原家旧蔵の近代木彫作品が所蔵されていた事実から、三溪が田中たちの作品を購入していたことは間違いありません。とりわけ三溪の購入した時期、田中たち木彫家の作品はほとんど評価されておらず、作品も売れませんでした。したがって三溪による彼らの作品の購入は、非常に大きな支援となったと考えられるのです。また、これらの作品が散逸せず、まとまって東京国立博物館に所蔵されている意義も極めて大きいものです。

以上、雑誌記事をまとめた際に質問を受けたことをきっかけに、三溪の支援の意味について考えてみましたが、実は今回の執筆を通じて、現在進めている荒井寛方と三溪との関係について新しい発見もありました。もっとも、発見というにはあまりにささやかな「数ミリ程度」の発見で、まだここで述べる段階ではありませんが、今まで見過ごしていた事実であり、これから調べを進めていく予定です。

荒井寛方は明治から昭和戦前期に活躍した日本画家で、主に仏教を主題とした作風で知られています。寛方は早い時期から三溪の支援を受けていました。三溪の寛方への支援は本学のウェブマガジン『アネモメトリ』にも何回か書きましたので参照ください。

寛方には三溪の他に、地元を中心とした支援者がいたことも分かっています。彼らは物心両面で寛方を支え、没後は遺作展の開催も行い、その活動が現在のさくら市ミュージアム-荒井寛方記念館―設立にもつながりました。次の写真は昨年開催された荒井寛方展のものです。同館には寛方の作品はもちろん、地元の支援者による書簡など貴重な史料も多数所蔵されています。

さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-外観



昨年開催された「生誕140年記念 荒井寛方展」看板



三溪は支援を終えたのちも支援した芸術家たちと交流を続けていましたが、寛方とも親しく交際していたと思われます。そうした両者の関係について先に述べた「数ミリの発見」を手掛かりに、さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館―所蔵の関係資料調査を進めていきたいと思います。

以上、近況報告としてとりとめのないことを書いてきました。日々の研究は多忙かつ地味で変化に乏しい作業の連続ですが、今回のように野毛山公園の睡蓮の池をベストシーズンに見学できたり、たまたま引き受けた仕事をきっかけにちょっとした発見をしたりと、嬉しいことも結構あるのだということをお伝えできたら幸いです。みなさんも論文研究や卒業研究を進める過程でいろいろな経験をすると思いますが、さらにその先続けていくなら、もっと面白いことが待っているかもしれません。

横浜美術館 外観



なお、先に述べた横浜美術館で開催予定の「原三溪と美術」展には、先述した大観作《柳蔭》や観山の代表作《大原御幸》《弱法師》などの他、多くの旧蔵近代美術作品が出品されます。また《孔雀明王像》(東京国立博物館)など古美術の名品も多く、大変充実した内容です。さらに最期の部屋には今回取り上げた「美術品買入覚」を始めとする三溪自筆の貴重な史料も展示されます。同展は三溪と美術との関わりを多角的にとらえる絶好の機会になりますので、ぜひお出かけください。なお、展示替が多いため、事前のチェックをお勧めします。私も何回か再訪してじっくり鑑賞したいと思います。

これから暑さの厳しい季節を迎えます。どうかお体に気を付けて充実した夏を過ごされますように。それではまた!

 

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