PHOTO

PHOTO

アートライティングコース

  • HOME
  • アートライティングコース 記事一覧
  • 【アートライティングコース】聞いたこと見たことを、実際の風景や個人の顔からゆっくりと引き離し、もう一度語ろうとすると、そこに物語が発生する(瀬尾夏美)

2021年09月15日

【アートライティングコース】聞いたこと見たことを、実際の風景や個人の顔からゆっくりと引き離し、もう一度語ろうとすると、そこに物語が発生する(瀬尾夏美)

こんにちは。アートライティングコース担当教員の大辻都です。

先日、アメリカ合衆国での同時多発テロ事件から20周年との報に触れ、「もうそんなに」と時間の過ぎる早さに驚きを覚えました。事件当時ワシントンDC近郊に住んでいた私は当事者でこそありませんが、その日を境にしての、低い上空を軍用機が飛び交う日々、家から遠くもない国防省建物の横腹に巨大な飛行機型の穴が開いている光景を、個人の記憶として今もはっきりと思い出すことができます。それでも知らない人にとってみれば、20年前の出来事と言われれば、遠い歴史上の物語のように感じられるのかもしれません。

幼い頃は、母親から東京大空襲の日に逃げまどった話をよく聞かされました。東京の町中が焼け野原になり、転がる死体を避けながら、小さい弟の手をひき親を探す母の姿。今自分がいる東京でかつてそんな光景が広がり、自分と歳の変わらぬ母がそんな目に遭っていたという話は子どもごころに衝撃的でしたが、事実と認識してはいても、現在の自分の日常とは切り離されたどこか神話のような遠さを感じていました。

自分の同世代は親もたいがい同世代であるわけで、かつて身の周りでは珍しがられることもありませんでしたが、最近では母のそうしたエピソードを口にすると、驚かれたり歴史的証言として価値づけられることが増え、時代の流れを感じています。それと同時にもうひとつ感じ入るのは、当事者である母の話を聞いた私がまた誰かに語ることの意味についてです。当事者が自分の体験を語るのではなく、その話を聞いた誰かが語り直す、あるいは文字にして伝えるという段階を踏むことで、その話は具体性は残しつつも、いくぶん公の度合いを高める気がしています。

他人の話を聞き取って文章にまとめた聞き書きやインタビュー記事は誰しも目にしたことがあるでしょう。話し手の持つ固有の体験や特別な技術など、そのままでは埋もれてしまう貴重な内容を大勢が共有し、知ることができるのは、聞き手による記録と発信の行為があるからです。アートライティングコースでは、聞き取りによるこうした記録を、芸術・文化の伝達に有効な手法のひとつと位置づけています。



瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ』(2019年)と『二重のまち/交代地のうた』(2021年)は文章と絵で構成された作品ですが、そのベースには著者による聞き書きがあると言います。瀬尾さんは20113月、東日本大震災が起きた直後から、津波の被害が激しい陸前高田を中心に被災地に通い始め、出会った被災者一人ひとりに話を聞いてはtwitterで発信するなどし、書くことを継続してきました。その内容は、亡くした家族のこと、津波以前のこと、現在の生活や復興への思いなどさまざまです。

それらを証言としてまとめるだけでも大きな価値があったでしょう。ですが「作品」は単なる記録にはとどまっていません。当初は美大の学生だった瀬尾さんが10年もの間あえて部外者として接してきたのは、被災地の人々だけでなくその風景でもありました。『あわいゆくころ』の大半は日記のように日付で区切られた体裁になっており、それは「歩行録」と名づけられています。自分の身の上や思いを語る被災者のいくつもの声の断片は、旅人として歩き回っては人の話を聞き、刻々変化してゆく風景を俯瞰して捉える著者自身の思いや考え、時には第三者の言葉と並置され、全体が歩行録を成しているのです。

『二重のまち/交代地のうた』は、完全なフィクション作品、聞き書きによる原稿を語った当事者が朗読するというプロジェクトの収録、そしてtwitterを日付ごとにまとめたものによって構成されており、ここにも『あわいゆくころ』のコンセプトが継承されていると感じます。

『あわいゆくころ』には以下のような著者の言葉があります。
私は、日々記録の仕事に携わりながら、そうではない書き留め方を自らの手で発見し、実践していくことの必要性を感じていた。被災地の前線にいるおもいのほか存在していないその手法はきっと、芸術に関わる何かであろう[注1]。

記録を続けながらも、そこからさらに飛翔しようとする文章。そうした模索のなか、歩行録には「物語」という言葉が何度も現れます。
聞いたこと見たことを、/実際の風景や個人の顔から/ゆっくりと引き離し、/もう一度語ろうとすると、/そこに物語が発生する[注2]

物語とは事実というよりは虚構、すなわちフィクションに属するものです。とはいえ多くの物語、とりわけ作者のわからない民話の類は、ひとりでに生まれたというより、元にあった何がしか現実の体験が反映されてできているのではないでしょうか。個別の体験から発しながらも、時間をかけて人から人へと伝わる過程で、体験した当事者の名や具体的な地名はどこかに消え、複数の人が共有できる普遍性を獲得していったものであるように考えられます。



私が研究するカリブ海文学の世界にも、クレオール語という元来文字を持たない言語での民話が多く継承されています。ヨーロッパ人が熱帯の島々に築いた巨大農園で働く奴隷たちが生み出したそれらの民話は荒唐無稽な笑い話であることが多く、語り部による独特なリズムとともに語られますが、そこには現実に家族を持つことを許されなかった奴隷たちの父親探しのテーマや、過酷な環境下で主人の目をかいくぐって何とか生き延びようとする知恵を見つけることも可能です。

こうした笑い話が、つかの間自由になれる夜の奴隷小屋の中庭で共有され、聞き手も合いの手を入れたりして笑い合う時間は、彼らの魂にいくぶんの浄化をもたらしていたのではないかと思われます。

瀬尾作品で著者の歩行の中心となる陸前高田では、復興により津波の被害を受けたもとの町が10メートルも嵩上げされ、新たな町が作られました。つまりこの場所は物理的に「二重のまち」となったわけですが、埋め立てられたもとの町には住民たちが亡くした家族や仲間とのかけがえない時間があったと考えれば、二層化された町とは単なる地形の変化ではすまない深い意味を持つものだということがわかるでしょう。瀬尾さんの言葉のなかには、上下に分かれた町に「物語で梯子をかける」という表現も見られます。
あのまちとこれから出来るまちを、/物語によって、細い梯子をかけるみたいに、/すこしずつ繋いでいきたい[注3]。

今ある風景とかつてあった風景、現在の時間と過去の時間、生きている者と死んだ者……それらを無理なく結びつけ、また誰しもが自分ごととして受けとめられるようにし、何らかの浄化をもたらすのが物語の力なのかもしれません。

アートライティングコースでは、芸術や文化を記述するアートライティングと小説や詩などのフィクションを便宜的に区別しています。しかしその区別は本当は自明のものではありません。両方に跨るような作品、つまりフィクションでもありながら、同時に人の文化に関わる重要な発見を指し示す作品のかたちもありうるのだということをこれらの作品は教えてくれるように思います。

9月19日にオンラインで行われるアートライティング特別講義では、ここでご紹介した瀬尾夏美さんをお招きし、執筆のみならず映像や絵画の制作までを含む創作にまつわる話を伺う予定です。アートライティングという概念の境界が広がる絶好の機会になることと、今から期待しています。

[注1]『あわいゆくころ』124頁。

[注2]同書、264頁。

[注3]同書、271頁。

*京都芸術大学学生で参加希望の方はairUに当日の日程、URLのお知らせがありますのでご覧ください。

 

アートライティングコース|学科・コース紹介

この記事をシェアする