PHOTO

PHOTO

芸術学コース

2023年07月10日

【芸術学コース】月と花山

 梅雨の時節、いかがお過ごしでしょうか。芸術学コース非常勤の多賀です。梅雨が明けるといよいよ夏本番に突入ということで、今年の夏休みこそは海水浴や天体観測を満喫するぞといまから意気込んでいるアウトドア派の方々もおおぜいいらっしゃるのではないでしょうか。

 出不精の私としては、いずれも縁遠い行事なのですが、つい先だって、天文台に見学に行こうという話がひょんなことからもちあがり、京都にいながら京都について何も知らないことに対する内心忸怩たる思いも手伝って、お誘いくだすった友人ともども出かける運びと相成りました。

1 いざ天文台へ


 (たいへん失礼ながら)「京都に天文台なんてあったかしら」といささか訝しく思ったものの、久々のピクニック気分で浮かれていたせいか、さして調べもせず、首をひねりひねり待ち合わせの場所に集合しました。同乗させてもらった車は、五条通を一路、東に向かい、人家がまばらになってくると、小高い東山の山奥にずんずん入っていきます。方向音痴のせいで正確な地理はつかめませんでしたが、どうやら到着先は、清水寺の「裏手」(山科側)にあたるということです。大倉三郎の設計になる堂々たる白堊の建物に由緒ある門札の「京都大学 花山天文台」の文字をみて、遅まきながらやっと合点がいきました。そういえば、2020年に当地を電撃訪問した、宇宙物理学者でもあるクイーンのギタリスト、ブライアン・メイ氏が天体望遠鏡の支柱にサインを残し、そのことがずいぶんニュースでも話題になっていましたね。ご記憶の方々も多いのではないでしょうか。

花山天文台本館正面近影(2023年4月撮影)



花山天文台本館ドーム内45cm屈折望遠鏡(花山天文台配布パンフレットより転載)
©一般財団法人 花山宇宙文化財団



 当日は残念ながら天文台内部の見学はできませんでした(したがって、現役最古の望遠鏡といわれる、ドイツ・ゲッティンゲンのザートリウス社製18cm屈折望遠鏡も実見はかないませんでした)が、その代わりに、3Dメガネを装着して、研究者による愉しくわかりやすい解説つきで、「4次元デジタル宇宙シアター」の上映を観て、御機嫌で帰ってまいりました。

2 迷宮の藪の中に


 平々凡々たる日常生活を送っていた人が、ふとしたことでくすぐられた好奇心やごくささいなボタンのかけ違いをきっかけに、自分でもあずかり知らぬとんでもない陰謀の渦に巻き込まれてしまうというのは、ヒッチコック映画の常套のプロットなのですが、いささか大仰ながら、この見学ツアーを機に、図らずも私にとって悶々とする日々がしばらくつづくことになりました。星々の燦めく壮大な宇宙に思うさま夢を馳せていた、というわけではありません。私の関心はもっと「地上的」でごく些細なものです。

 「花山天文台」の「花山」の読みは「はなやま」ではなく一般には「かざん」です。「一般には」とわざわざ断りましたが、後述するように「かさん」という清音の読みもあります。いずれにせよ、歴史好きの方なら、すぐに察しがつくと思いますが、日本史上、稀代のトリックスターともいうべき第六十五代帝、花山天皇(安和元[968]年-寛弘五[1008]年)とのゆかりを否応なく感じさせます。永観二(984)年に十七歳で即位したのち、わずか二年足らずの寛和二(986)年六月二十二日(二十三日とも二十八日とも)未明に突如、ひそかに内裏を出奔し、六歌仙の一人、僧正遍昭(へんじょう)の発願になるある寺で出家し、あっさり退位してしまいます(一連の顚末は三島由紀夫が短篇「花山院」でもとりあげています)。

 このいわゆる落飾事件の歴史的舞台となった天台宗の寺院こそ、まさしく現在も花山天文台のほど近くにある元慶寺(古くは「がんぎょうじ」、現在は「がんけいじ」)なのです(ただし、寺領を押領されたり応仁の乱で焼失したりして、現存の建物は十八世紀後半の建立だといいます)。ところで、この元慶寺はあくまで『大鏡』の記述では「花山寺」の名前で出ており、その読み方は「かさんじ」であったり「はなやまでら」であったりと校訂者によりまちまちです。地元ではどうやら「かさん」の読みが優勢らしく、京都市立花山中学校の「花山」も「かさん」です。ちなみに、安永九(1780)年刊の『都名所図会』では、校訂者により一貫して「かざん」の読みが採用されているものの、版木挿絵の複製からも確認できるように、元は「くわさん」と清音読みです(くわしくは図版をご覧ください)。ところが、同書(第二巻三〇四頁)に引用されている僧正遍昭の歌、

 まてといはゞいともかしこし花山にしばしとなかん鳥の音もがな(『拾遺和歌集』巻第十六、一〇四三)

の一首では字数から明らかに「はなやま」と詠まれています。

『都名所図会』巻之三(市古夏生・鈴木健一校訂『新訂 都名所図会 2』、筑摩書房、1999年、108-109頁)



 ことほどさように、そもそも地名・人名では、なにも「花山」にかぎらず、複数の表記や読み方が共存しているのがむしろ至極当然で、ことさら目くじらを立てて、ああでもないこうでもないだのとしいて詮議立てすること自体よっぽどどうかしているのかもしれません。しかし、喉元に引っかかった魚の小骨のように、気になるものは取り除きたいというのが人の常です。そんな不毛な探索をつづけるうち、「天智天皇時代に華頂(かちょう)と呼んでいたものが平安京遷都の際に「花山(かざん)」に転じた」という主旨のいかにももっともらしいネット情報の数々に出くわすことによって、ささやかなるわが調査活動も完全に暗礁にのりあげてしまうことになります。揃いも揃って情報源が明記されていないのです。くわえて、上記の『都名所図会』にその旨の記載が一切見当たらないのも解せないことです。東山三十六峰の一角をなす「華頂山」が、前述の元慶寺や知恩院の山号であるのは事実ではありますが、『日本歴史地名体系第27巻 京都市の地名』の記述をあくまで信ずるならば、華頂山の山名は、いまは焼失して現存しない花頂院に由来しているのに対して、「花山」のほうは、三省堂『コンサイス日本地名事典』第五版によれば、「貞観十八(876)年建立」(?)の花山寺に由来するというのが、現時点での身も蓋もない調査結果です。この「花山寺」に因んでの花山院のはずですから、堂々巡りしたあげくに、結局は元の木阿弥に返ってしまったような感じがします。

 ことここに至ってふりかえってみれば、目的地もよくわからないまま車で導かれていった先は、じつは天文台ではなく、「花山」という名前の深きも深き山奥の迷宮だったのではないか、とさえおもわず勘ぐりたくなってきました。藪や泥沼にはまってからこんなはずではなかったと嘆いてみても、後の祭りです。そこで、いったん気を取り直して、踏み惑ってしまった行き止まりの道を諦め、そもそもの起点まで引き返してみることにしましょう。

3 あなたもついつい花山院から目が離せなくなる


 名前をどう発音するかは、なるほど重箱の隅をつつくようなつまらないこだわりのようにみえながら、その名のついた土地や人のイメージを頭の中で形づくるうえでは、えてして徒や疎かにできない決定的な相違をつくりだしてしまうものです。「花山」の読み方に拘泥しているあいだにも、私の中で、花山院のイメージは「かさん/かざん」という清濁陰陽の二面性──「はなやま」まで含めると三面性──のはざまで微妙に揺れ動いているのです。

 『大鏡』の「花山院」の段を古文の受験勉強で読んだ人ももしかしたらいるかもしれません。ただ、私が花山院の名を知ったのは、もっと遅く、澁澤龍彦の『唐草物語』中の「三つの髑髏」を読んだときでした。ここで澁澤は、『大鏡』、『栄花物語』、『古事談』などを下敷きにしながら、彼好みの幽冥なる小説世界の中で花山院を主人公にその想像力を存分に発揮しています。もちろん、澁澤が先述の三島の「花山院」を意識していないはずはありません。

 『イリアス』でも、英雄アキレウスよりもその敵将ヘクトルに、『クオ・ウァディス』でも、主人公ペトロニウスよりも皇帝ネロについ肩入れしたくなる読者というのがつねに一定数はいるものです。とはいえ、花山院の場合には、出家後の女性関係の不行状や数々の奇行癖から察すると、ネロ帝のような破天荒な一面を覗かせるものの、他方では、まったくちがう顔も見せる、一筋縄ではいかないような人物らしいのです。つまり、仏道修行へのなみなみならぬ打ち込みぶりといい、『拾遺和歌集』の撰者と目されるほどの歌の愛好ぶりといい、澁澤が指摘するとおり「あのローマのペトロニウスのように「趣味の判者」として」面目躍如たるものがあるのです。

 『大鏡』の著者をして「この花山院は、風流者(ふりうざ)にさへおはしましけるこそ」(巻三)といわしめた帝ではありますが、この場合の「風流者」は、「みやびな人」という今日におけるような意味ではないようです。内裏の車庫に傾斜を設けて、緊急時には人の手を借りることなく車が「からからと」自動的に出てくるようなしくみを考案したという文脈からみても、「趣向を凝らす工夫上手な人」のことであり、ざっくばらんな言い方をしてしまえば「アイデアマン」というほどの意味でしょう。

 加うるに、「風流者」というこの呼称がいかにも意味深長なのは、「風流」には、「祭礼行列などで、笠や仮装に施す華美な装飾」のことを指す場合もあるという点です。実際のところ、寛弘三年十月五日に父・冷泉院の御所であった南院が火災に見舞われた際に、その現場に駈けつけた花山院の「ふしぎ」な格好(「御むまにて、いたゞきに鏡いれたるかさ頭光にたてまつりて(馬に跨り、頂に鏡を嵌めた笠を阿弥陀におかぶりになって)」同上)や長徳三年の賀茂祭の翌日に行列見物にお出ましになった折に花山院が身につけていた「いと興ありし」特大のお数珠(ネックレス?)(「ちゐさき甘子をおほかたのたまにはつらぬかせ給て、だつまには大甘子をしたる御ずゞ、いとながく御さしぬきにぐしていださせたまへりしは、さるみものやはさぶらひしな(小さなみかんを普通の珠として紐で貫いて、ところどころ大きなみかんを留め玉にしたお数珠がとても長く、御袴とともに車の御簾の外にお出しになっていらっしゃいましたが、こんな見ものがあったものでしょうか)」同上)など、院の奇抜なファッション感覚には度肝を抜かれます。

 ちなみに、いささか余談にはなりますが、このお数珠の「みかん」は、私見によれば、出家の最大の原因といわれている花山帝の寵愛していた弘徽殿の女御(藤原忯子[しし])の急死とかならずしも無縁ではなさそうに思われます。「御悪阻(つはり)」の重い忯子に帝は、果物を摂ることをしきりに勧めますが、忯子は「橘一つもきこしめしては御身にもとどめず(みかん一つ召し上がってももどしておしまいになって)」(『栄花物語』巻第二)というありさまだったのです。もしかしたら花山帝にとって、みかんは、桃におとらぬ魔除けの力を具えた「スーパーフード」だったのかもしれませんね。

絹本著色花山法皇像[花山院](鎌倉~室町時代)三田市公式ホームページより。
転載を御快諾・御協力いただいた所蔵元の花山院菩薩寺、ならびに三田市役所に心より感謝申し上げます。
https://www.city.sanda.lg.jp/soshiki/15/gyomu/rekishi_bunkazai/bunkazai/bunkazai_shi/16028.html



花山法皇像(元慶寺蔵)
山本博文監修・かみゆ歴史編集部編著『ビジュアル百科 写真と図解でわかる! 天皇<125代>の歴史』、西東社、2018年、105頁。



 弘徽殿の女御の死後ほどなく、花山帝は突然、行方をくらまし、宮中は大パニックになります。その様子は、『栄花物語』には綴られているのですが、『大鏡』にはみられません。『大鏡』はむしろこの世紀の一大事をいたって呑気なトーンで伝えているような印象を受けます。

 『大鏡』によれば、出家および退位の決心を固めた花山帝が粟田殿(藤原道兼)を伴って内裏を深夜にこっそり抜け出すと、「ありあけの月のいみじくあかゝりければ(有明の月があまりにも煌々と輝いているために)」、人目に立ちすぎて花山帝のさすがの決心もすこしゆらぎます。それに対して、粟田殿はいかにも意に介さないというふうにそっけなく「さりとて、とまらせたまふべきやう侍らず(だからといって、中止なさるべき理由もございません)」と応じています。そのようにぐずぐずしているうちに、「月のかほにむら雲のかゝりて、すこしくらがりゆきければ、「我出家は成就する成けり」」(『大鏡』巻一)とお思い召された、とあります。やたらに理由をもちだしては出家をためらう花山帝を粟田殿はそら泣きまでして、なんとか説き伏せ、東に向かって連れ出します。その途上で通りかかるのが、夢枕獏の小説でいまやすっかり有名になった陰陽師・安倍晴明の邸です。邸内から「手をおびたゞしくはたはたとうつ」音がきこえ、「みかどおりさせ給ふとみゆる天變ありつる」、つまりは星辰の動きからこの一件を逸早く予知していたわけです。

 陰陽師というと、とかく式神を自由自在に操るオカルティストの面ばかり強調されがちですが、周知のとおり、安倍晴明は、当代一流の天文博士であり、占星術・天体観測・時・暦を管轄する陰陽寮という政府機関に属するれっきとした「公務員」でした。このエピソードでとりわけ興味深く感じるのは、晴明のみた「天變」です。それが具体的にはいったいどんなものだったのかについては、現在でも科学的なアプローチから、当時の暦と照らし合わせながら、諸説紛々、複数の可能性が探られているようです。しかし、『大鏡』の筆者にとってむしろもっと大切なのは、晴明が花山帝と同じく、月の面にかかる「むら雲」をみたことのほうなのかもしれません。「むら雲」で暗くなったために、「我出家は成就する」のだなあ、と帝はなかば腹をくくるわけですから。ちなみに、現在、安倍晴明の名前にちなんだ「せいめい望遠鏡」(京都大学岡山天文台)というものがあり、2019年から観測を開始しているということです。

 最後に、花山院の御製についてもすこしだけ触れておきましょう。澁澤は花山院の和歌に対して、おおむね辛口の評価を下していますが、唯一気に入っている歌として

 長きよのはじめ終わりもしらぬまにいくよのことを夢に見つらむ(『続拾遺集』巻第十八、一二六六)

の一首を挙げています。べつだん澁澤の向こうを張るつもりは毛頭ないのですが、私としては

 秋の夜の月にこゝろのあくがれて雲ゐにものを思ふころかな(詞花集・巻三・秋・一〇六[一〇四])

もぜひあわせて挙げておきたいと思います。

 「月」の縁語の「雲」ですが、「雲ゐ」には、「宮中」の意味もあります。寛和元(985)年八月十日の歌合(題は「月」)で詠まれましたので、帝の寵愛した忯子がなくなってからわずか十数日後の歌ということになります。そのことを考え合わせながら鑑賞すると、またいっそう感慨深いものがあるのではないでしょうか。

(多賀健太郎)


«参考文献»
『詞華和歌集』松田武夫校訂、岩波書店、1939年。
『詞花和歌集』工藤重矩校注、岩波書店、2020年。
『拾遺和歌集』武田祐吉校訂、岩波書店、1938年。
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄編、旺文社、1979年。
『大鏡 全現代語訳』保坂弘司訳注、講談社、1981年。
『大鏡』松村博司校注、岩波書店、1976年。
『大鏡』、橘健二・加藤静子校注・訳、小学館(新編日本古典文学全集第34巻)、1996年。
『新編日本古典文学全集31 栄花物語1』山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進校注・訳、小学館、1995年。
澁澤龍彦『唐草物語』河出書房新社、1996年。
三島由紀夫『三島由紀夫全集』第三巻、新潮社、1973年。
山本四郎『新全国歴史散歩シリーズ26 京都府の歴史散歩』中巻、山川出版社、1995年。
三省堂編修所編・谷岡武雄監修『コンサイス日本地名事典』第五版、三省堂、2007年。
『日本歴史地名体系第27巻 京都市の地名』、平凡社、1979年。
市古夏生・鈴木健一校訂『新訂 都名所図会 2/4』筑摩書房、1999年。

芸術学コース|学科・コース紹介



芸術学コース紹介動画(教員インタビュー)



芸術学コースコースサイト Lo Gai Saber|愉快な知識

この記事をシェアする