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映像コース

2025年06月10日

【映像コース】わたしだけのゆがみを愛して憎んで声にして

映像コース 丹下紘希




どうして映像を学ぶのか


先日、一期生のみなさんが開いてくださった学習会と懇親会に参加しました。その場である学生からこんなことを頼まれました。
「このコースが立ち上がる時の記者発表をYoutubeで見たのですが、その時の丹下先生のスピーチがとても良かったので、どこかで見られるようにしてください」ということだったのです。
僕自身、とても緊張したことは覚えていても、どんなことを話したのかすっかり忘れていたのですが、久しぶりにその時の原稿を読み直しました。

すると、映像コースの社会的意義について、大きく3つのことを伝えていました。

1、人間にとって映像がどんな役割を果たしてきたか
2、どうして映像を学ぶのか
3、本当の自分として生きていくために


最後の「本当の自分として生きていくために」がなんだかとても大事なことのように思えたので、スピーチを読んでいただく前に「今という時代に本当の自分として生きることがどういうことか」を一緒に考えたいと思います。

今という時代に本当の自分として生きることがどういうことか


今という時代を生きることとは、どんな状態でしょうか。そのことを鋭く捉えた別な文章のことが頭に浮かんだのでご紹介します。
ミュージシャンのテイラー・スウィフトが2017年に出したアルバム「レピュテーション」のライナーノーツの中で語っている言葉です。
問題なのは、この世の全ての人や物を、私たちは単純化・一般化せずにはいられないにもかかわらず、人間は本来、単純化するのが不可能な存在だということ。私たちは、単なる善人でもなければ、単なる悪人でもない。プロフィール写真と、写りの悪い運転免許写真との間のどこかに存在している(1)

Taylor Swift 《reputation》Copyright © 2017 UNIVERSAL MUSIC LLC All rights reserved. 
(1)翻訳抜粋 rockin’on.com https://rockinon.com/blog/shibuya/170334



この文章を詳しく観察してみると、人間という複雑な存在と、それを簡単にわかったような気になっている状態でコミュニケーションしている私たちが見えてきます。そして「何かを期待する人々とその期待通りにはいかない自分」の間にグラデーションがあることがわかるのです。
無数の人々によって完璧に作られ単純化されたわたし。
それに対してあちこちデコボコでゆがみのある複雑なわたしは抵抗できるのでしょうか。

見る、見られるって?コミュニケーションの嵐の中の私たち


テイラー・スウィフトの言うプロフィール写真と、写りの悪い運転免許証の意味を考えてみましょう。プロフィール写真は、見られることを前提にしていますが、写りの悪い運転免許写真はただの存在証明で誰かに見せる前提ではありません。
そこには、(本当の自分ではない単純化したわたしを)見られている自分もまた、(本当のその人ではない単純化したように)他の人々を見てしまうというパラドックスがあり、携帯の中で竜巻の渦のように全ての物事を飲み込んでいるように思えるのです。

そのことをこれから読んでいただくスピーチの中では「私たちはコミュニケーションの嵐の中にいます」とお伝えしています。
この「見られる自分と、見る自分の存在」が視覚芸術を自分と重ねて考える上で重要なことではないでしょうか。

このアルバムタイトルの「レピュテーション」とは、翻訳すると「評判」という意味です。15歳で有名人になってしまったテイラースウィフトの言葉だけれど、今や誰もがこの誰かの視線、他者の評価、評判の嵐の竜巻の中にいるのかもしれません。


映像コース記者発表のスピーチ


みなさんに以下のこの映像コースに込めた想いをご紹介したいと思います。
私たち人間は極めて社会的な動物です。
決して独りでは生きてはいけず、他者との間にコミュニケーションを必要として「言語」を発展させました。
そして言葉の壁を越えるように新しい言語として映像を機能させてきました。

社会の中で複雑な言語機能を果たす映像は、人と人を繋ぐメディウム(媒介するもの)として存在し、それが「メディア」となっています。

メディアとは私たちの「知」であり、「情報」であり、何より人々の「声」として暗闇を照らしてきました。

私の「声」とは、どんな時にどんなことを語り、社会の中で光を灯していくのでしょうか。
誰もが、映像でたくさんの人に感動を与えたり、たくさんの人たちを繋げたりすることもできる一方で、一瞬にしてその積み上げた関係を崩すこともできるし、誰かを不安に陥れてしまうこともできます。
映像によってイジメや、差別やヘイトに加担することもあるでしょう。

何が真実かわからないフェイクが拡散され、人間の心を恣意的にコントロールすることなど、今も、映像メディアは日に日に深刻な新しい社会問題を生み出し続けています。

だからこそ、学びが必要です。

だからこそ、私たちのこれから向かう先や、私たちの抱える問題の解決に役立つよう、「映像とは何か」を考え続けていきたいです。

そのために私たちは、社会の声となる映像言語を深く掘り下げ、その可能性を探求します。

今、私たちは、コミュニケーションの嵐の中にいます。その嵐の中で、私たちは本当の自分として生きていけているでしょうか。
いいねやフォローが欲しくて、多くの人々から求められる自分をいとも簡単に差し出してしまうような時代に生きているのじゃないでしょうか。

ゆがんでいようが、はみ出していようが、自分らしくあるために、全ての一人一人の表現、その「わたしの声」を伝えるメディアとしての映像の、表現、知識、教養、技術を様々な角度から習得し、学ぶみなさん、それぞれの自己実現へと向かう力を育みたいと思っています。

 

スピーチの内容はここまでです。
自分のゆがみを簡単に愛せるとは思っていません。憎んでもいい。でも、単純化できない自分として胸の奥にしまっておくばかりではなく、学びを通じて自分のその想いを言語化し、見る、見られるコミュニケーションの嵐の中で本当の自分の声を掴み取ってもらいたいのです。


 

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