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アートライティングコース

2022年09月21日

【アートライティング】アテーナーのふくろうは黄昏のはじまりに飛び立つ  G.W.F.ヘーゲル『法の哲学』(1821)

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。アートライティングコースの教員、上村です。今年も酷暑、豪雨に悩まされた夏でした。それでも、さすがに夕暮れ時には涼しさが感じられるようになってまいりました。作品鑑賞に出かけるにも、また書物に親しむにも、やはり秋という季節は良いですね。

しかしまた、夏の暑さがあってこそ、この落ち着きがあるのかもしれません。良きにせよ悪しきにせよ、ひとしきり倉皇たる処世に疲れたからこそ、来し方を思いやる時間が到来します。植物も動物も照りつける陽光の下で懸命になって生を営んでいます。やがて日が落ち、夜空が世界を覆いはじめる頃、ようやくせわしない動きが収まり、静かに落ち着いた憩いのときとなります。

冒頭に掲げたのは十九世紀ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉です。人間の活動から休息へという流れになぞらえて、哲学という反省的な行為の性格を延べたものです。アテーナーは古代ギリシャの知恵の女神です。ふくろうは、おそらくは暗闇をも見透すその目敏さのために、知恵や学問の象徴となり、またアテーナー女神のアトリビュート(持物)として描かれてきました。

それが「黄昏がはじまってから飛び立つ」というのは、つまり、日中の人々の活動が一段落してはじめて思索が始まる、という意味です。たしかに、あれやこれや忙しく動き回っているあいだは物事を考えられるものではありませんし、この言葉も、まあ、当たり前の話だといえばそうでしょう。しかし、ヘーゲルの意図としては、一日単位の行為と反省ということを問題にしたかったというより、もう少し長いスパンで歴史の問題を語ろうとして黄昏時のふくろうを持ち出しています。

哲学が生まれるのは、事件の展開のさなかではなく、歴史が進行して完成したのちのことです。哲学が現実を概念で描いたときには、もう現実は年老いています。そして人類はすでにひたすら精力的に活動する時代を終えたのかもしれません。この考え方は芸術の歴史にも関係します。芸術もいくつかの段階を経て大きく様変わりしてきました。ヘーゲルの考え方からすれば、芸術という表現のかたちが盛んだった時代は終焉を迎え、もはや芸術活動そのものではなく、芸術に対する反省的な考察がなされる時代が到来した、ということになります。

芸術の時代が一段落して、いまや芸術の歴史の時代が来た、という話を芸術大学でしますと、(当然ながら)不審がられます。一方的に芸術とはこれこれだ、と決めつけて、その役割や歴史を終わったものとされては、これから芸術に携わろうとするみなさんは納得がゆかないでしょう。ただそれでも、近代以降、芸術がいかに自分たちの歴史を意識してきたかを考えると、ヘーゲルの考えに頷かされるところもあるのではないでしょうか。

実際、芸術はきわめて芸術史に敏感になってしまいました。芸術家は、歴史を参照しつつ、自分がいつどのような活動をしているのかを意識します。自意識過剰と言っても良いぐらいです。「自分の属する国や時代の精神に忠実な芸術家が特定の信念の輪の中に閉じこもっていた時代とは逆に」「今日ではほとんどすべての国々において、反省的な思考と批評が、そしてとりわけドイツでは哲学的な自由が芸術家たちを捉えてしまった」(『美学講義』)というわけです。勿論、素朴に作りたいものを作る、ということは今の時代でも可能です。

しかしそれは職業としての芸術家にとっては難しいことです。自分の活動を意識化、言語化せざるを得ない時代なのです。私自身、作家を目指す学生には自分の活動の歴史的な位置づけを言葉で語れるようになるように求めています。自分が身につけた技術や手に入れられる素材は何か。自分の主題や様式をどう考えるか。こうしたことは芸術に専門的に携わろうとするなら、意識しないではいられません。そしてそれが制作にとって必要なのは、そうした歴史的な意味付けが作品の評価に決定的に関わっているからです。好きなものを好きなように好きなだけ作る、という牧歌的な世界が悪いわけではありません。またそれをアマチュアの凡庸で幼稚な趣味的作品だと一概に蔑ろにすることもできません。それどころか、おそらくその素朴な態度からこそ、独創的な天才が生まれるようにも思います。

しかし芸術の制度的な仕組み(美術館、コンクール、文化財保存、芸術大学など)では、芸術を比較し、分類し、整理するという言葉のシステムが機能します。無心に与えられた環境を疑うことなく手を動かせば良かった時代からすると、やたらと頭を使う時代になってしまいました。地元の教会のボロボロになった絵画を見つけて、良かれと思って手を入れて直したら、トンデモ修復として非難されます。美術史的にオリジナル作品を尊重すべきところだった、ということでしょう。そして作品の修復保存は勿論のこと、売買でも鑑賞でも、作品の知識は不可欠になってしまいました。作品のタイトル、キャプション、プレゼンテーションや解説が面白ければ、それで十分、作品の画像すら見なくても良いほどです。

しかし、これは果たして本当に芸術の時代が終わってしまったということになるのでしょうか。いまや言葉がかつてないほどに幅を利かせている時代だということは、たしかにそうかもしれません。それでも、言葉は単に透明な概念ではありません。言葉にはそれぞれに触感も重さもあって、だからこそ、ネット社会のなかでは理知的な対話が繰り広げられているというより、重苦しい情念が渦巻いているのではないでしょうか。

手を動かしてモノを形作る芸術活動も、さまざまな言葉を纏いつつ、さらに輻輳的な感覚の織物になってゆくように思います。アートにテキストが取って替わった、ということではなく、アートがテキストとともに生まれることが普通になったと考えたほうが良いのではないでしょうか。

アテーナーのふくろうは黄昏時に飛び立ちます。しかしふくろうとともに、夜行性のアートが飛び立ったのかもしれませんし、夜が来ても自若として営まれる白夜のアートになったのかもしれません。

(写真のスタンプはフクロウというより、どちらかというとミミズクに似ていますが)



 

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