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アートライティングコース

2019年06月19日

【アートライティングコース】「単一の定式に押し込めるには、あまりに偉大で、あまりに生気に溢れている」バーナード・ベレンソン(1894)

みなさま、こんにちは。梅雨空のもと、緑が鮮やかですね。芸術に関わる文章制作を学ぶアートライティングコースは、無事この4月に開設され、いま90名ほどの方が在籍されています。大学では専門家から学ぶということはもちろん大事なのですが、志向を同じくする多くのかたと一緒に学ぶことも、非常におもしろいところです。個性豊かな同級生から刺激を受けることも、また自分が他人に与える反応を知ることも、アートライティングにとっては非常に有益です。じっさい、現実の芸術活動の豊かさに引き比べて、個人の知識や信念など、多寡が知れています。芸術には多様な視点や多角的な評価があってこそ、なおのことその意味が引き出せます。

さて、標題に掲げた言葉は、19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したアメリカの美術史家バーナード・ベレンソンのものです。「アメリカの」と言っても、リトアニア生まれで、亡くなったのは長く暮らしたフィレンツェ郊外のセッティニャーノの別荘です。日本の美術史家矢代幸雄もかつてそこで彼の助手として学びました。様式的特徴を見分けて作品を同定する「通(つう)」ないし「目利き」の代表的な人物といってもよいでしょう。彼の方法論(さらには生き方)にはいろいろと異論もあるかもしれませんが、当時のアメリカの美術館やコレクターに非常に大きな影響力のあった美術史家です。
「単一の定式に押し込めるには、あまりに偉大で、あまりに生き生きとしている」のは「芸術という主題」です。ベレンソンの『ヴェネツィアの画家たち』(1894年)の序文に記されています。そこで彼は、ルネサンスの特性がとりわけヴェネツィア絵画に至って十全に開花したことを読者にはっきりと示すために、書物からそのことに関係しない話題を省いた、と断りつつも、そのあと、カルロ・クリヴェッリの名前を挙げて、大きな流れからはみ出す画家の存在も指摘します。


「カルロ・クリヴェッリ《聖母子》1480年頃、メトロポリタン美術館蔵」



幸いなことに、芸術という主題は、単一の定式に押し込めるには、あまりに偉大で、あまりに生気に溢れている。そして十五世紀のイタリア芸術についての我々の全体的な見方をゆがめることなく、カルロ・クリヴェッリのような画家を正当に扱える単一の定式は存在しない。クリヴェッリはすべての時代、すべての国を通じて最も本物の芸術家の序列に位置付けられ、たとえ「巨匠」たちが退屈に思えるようになったとしても、彼はうんざりさせることはない。彼は、日本の意匠の持つ自由さと精神によって、ヤーコポ・ダ・トーディ〔十三世紀の詩人〕のような荒々しくかつ優しい敬虔さを表現し、十四世紀フランスの職人が象牙で彫った聖母子のように、真摯で高貴な感情の甘さを表現する。シモーネ・マルティーニの神秘的な美しさ、若い頃のベッリーニの痛ましい哀れみは、クリヴェッリによって古薩摩や漆器にあるような線の強さと金属的な輝きを持つ形態を与えられ、またそれにもかかわらず、それに触れようという気にさせられる。クリヴェッリは、彼自身だけによって、そして反動的とは言わないまでも、〔絵画の流れのなかで〕静的な状態の産物として論じなくてはならない。

十五世紀の画家を日本の工芸になぞらえるというのも突飛に思えるかもしれませんが、クリヴェッリの硬質な線描を見ると、それもある程度納得させられます。またこうした造形的な質への犀利な関心こそ、ベレンソンの得意としたところでした。必ずしも全ての時代の全ての芸術家に対して適用できる方法ではないかもしれません。しかし、作品の個的な特徴に敏感になることは、アートライティングに携わる場合の非常に重要な条件ではあるでしょう。



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