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文芸コース

2022年12月23日

【文芸コース】「普通」の限界と「大きな物語」の復権

息苦しい時代だからこそ、そろそろ「大きな物語」を書いたっていいんじゃないか?



皆さん、こんにちは。文芸コース主任の川﨑昌平です。

研究の一環として、主にゼロ年代以降の「ライトノベル文学史」をまとめようなんてことを仕事の合間にしている私です。1981年生まれのオッサンからすると、ゼロ年代なんてつい昨日のことのようにも思えてしまうわけですが、きちんと文献を精読していくと、やはりそこには厳然たる時間の流れがあり、社会の変化があり、時代の変革があり、読者の変容があるのだなと気付かされる今日このごろです。

例えば「主人公のデザイン」。ゼロ年代初頭において、ライトノベルや漫画の主人公、とりわけそれが男性読者を対象としたものである場合、顕著な傾向として「普通」という属性を背負わされている点が観測できます。わかりやすい例を挙げてみましょう。

俺の名前は、高坂京介。近所の高校に通う十七歳。
自分でいうのもなんだが、ごく平凡な男子高校生である。(※1)


伏見つかさ著、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』からの引用ですが、一人称視点で物語る主人公が、自らを平凡と定義しています。他にはこんな例もあります。

 俺が朝目覚めて夜眠るまでのこのフツーな世界に比べて、アニメ的特撮的マンガ的物語の中に描かれる世界の、なんと魅力的なことだろう。(※2)

 中学校を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。(※3)

どちらも谷川流著、『涼宮ハルヒの憂鬱』からの引用ですが、やはり一人称視点の「俺」という視点そのものが、構築される物語世界を評しています、曰く「普通」と。視点そのものの独自性は極力排除される方向で描かれていることがわかります。普通の人間、常識的な人間である「俺」氏が前提となっている世界なのだと、物語のごくごく序盤で規定してくれているわけです。

類例はいくらでも探せるでしょう。絶対的な「普通」という属性を有し、なおかつ特徴的と言い切れるような特徴を所持しないという前提条件があることを半ば以上、義務として纏っている主人公は、枚挙に暇がありません。このあたりは、別の機会で詳述したいと思いますが、アメコミあたりのヒーロー像と比較するとおもしろいくらい対照的ですよね。

こうした設定は日常を背景とした物語を構築する上で非常に役に立ちます。主人公が平凡で普通であるからこそ、主人公以外のキャラクターが巻き起こす非日常に彩りがもたらされ、物語が動き出す仕組みが成立します。フィクションという言語表現の情動を、読者は固定された視点であるがゆえに堪能できるのです。

 

……と、未発表かつ未整理の論考から適当に論旨を切り抜いてみましたが、ここまで書いておきながら思うのは、ごく最近の物語事情についてです。むしろ激減しましたよね、「普通」を堂々謳い文句にする主人公って。異世界転生モノとジャンル分けされるライトノベル的文学観において主人公が決して凡庸に描かれないのも、「普通」に抑圧されてきた文芸表現全体の反動と見ることができます。「普通」じゃなくてもいいじゃないか、「普通」からスタートしない物語を書きたい、という……。漫画ではもはや「脱・普通」がスタンダードになっています。『進撃の巨人』のエレンも『呪術廻戦』の虎杖も『チェンソーマン』のデンジも、みんな「普通」をのっけから捨て去っていますもんね。

世界観を乱暴に表現する言葉を使うとすれば、「背景としての日常」が勢力を弱め、「舞台としてのファンタジー」が隆盛しつつある、と指摘することができるかもしれません。世紀末を経て新世紀に突入した頃は「どうせ毎日が日常なんでしょ」という思考に浸っていた人々が、いくつかの大きな出来事を体験することで「日常はいともたやすく崩壊するものである」という思想に出会い至った……と仮定するのはやや強引かもしれませんが、ひとりの読者としては、そうした変化を導いたことも自然に思えるほど、いろいろなことがあったなあという感慨がないとも言い切れないのが率直な思いです。

 

さて、以上を踏まえてこれからの文芸表現において何を企図すべきなのかを考えてみましょう。いろいろなアプローチが考えられますが(別に今の時代にあえて「普通」を主人公のデザインに用いてもいいんですよ。私はそういう作品も大好きですし、いついかなるときもニーズがあると、編集者として断言します)、ひとつだけ断言できる姿勢があるとすれば、それは「大きな物語」を避けないという筆致でしょうか。

 

1990年代であれば、「世界を救う主人公」は、よほどの強度がない限り、需要には至らない存在だったでしょう。ポストモダニズムの影響を論じるまでもなく、「大きな物語」は書き手も読み手も取り立てて愛そうとはしなかった時代です。

しかし、翻って現代はどうでしょう? 私個人は特段の政治的信条などは持たない(ようにしている)人間ですが、どうもここのところ「大きな物語」に復権の兆しがあるように感じます。SDGsなどもそうですが、時代そのものが、例えば地球や世界や未来を語ることに対して非常に肯定的というか、口の端に乗せても呆れられたり笑われたりしない雰囲気が醸成されているというか……いや、空気だけではありません。実際に「大きな物語」への希求があるような、あるいは切実なニーズが生まれつつある時代に至っているような気が私はしています。ウクライナの問題もそうですし、環境問題しかり、世界経済やそれらに紐づく社会情勢をつぶさに見渡しても、今だからこそ大上段に振りかぶって「大きな物語」をつくらんとする気概は、評価されるべきなのかもしれません。いや、この言い方は他人行儀に過ぎますね、そうした姿勢を体現する文芸こそが、読まれたがっている時代なのだと言い切ってしまいましょう、どうせなら。

そうですね、私も一介の作家として、なんだか血が騒いできました。80年代的小市民気質に凭れることなく、90年代的個人主義礼賛に阿ることなく、ゼロ年代的普通至上主義に跪くことなく……ひとつ、社会を謳ってみるとしましょうか、この世界を少しでも文芸の力でよいものとするために。

 

※1 伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(電撃文庫、2008年)14ページより引用。
※2 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川文庫、2003年)6ページより引用。
※3 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川文庫、2003年)7ページより引用。

文芸コース主任 川﨑昌平

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