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文芸コース

2022年12月01日

【文芸コース】「観察」で語彙を増やそう

皆さん、こんにちは。文芸コース主任の川﨑昌平です。
文芸コースで講師をしていると、時折「語彙を増やすにはどうすればよいか」といった種類の質問を受けることがあります。非常によい質問ですよね。だって、この質問をするからには、語彙を増やしたいという願いがあるわけで、その願いがどのように生まれたかと言えば、書いた文章を自分で読み、「言葉が足りない」という事実を自身で発見できたからでしょう。つまり、自分の文章を客観的に読むという、学びの基礎ができているわけです。なので、この種類の質問をしてきた学生を、私は一も二もなく讃えます。ボーッと勉強していたら「語彙を増やさないと!」とは思わないままでしょうから。

その上で、ではどのようにすれば語彙が増えるかをお答えします。
回答は非常にシンプルで、観察することです。なんでも構いません、身の回りのもの、近所の光景、親しい人の表情や仕草……そうした要素をつぶさに観察し、言語化する練習をしてみましょう。すると、途端に語彙が増えます。対象をじっくりと観察すればするほど、書き手に発見が生まれます。発見から生ずる驚きや感動を言葉にしようとすれば、観察量が多ければ多いほど、書き手は言葉を探さなければならなくなります。そのプロセスを繰り返すことで、自然と言葉が増え、文章が磨かれていくわけです。

周りをよく見てみよう。あなたが言葉にすべきものが、たくさんあるはずだ。



具体的なチャレンジとしては、日記がおすすめです。日常で接した事物事象を、就寝前に丁寧に言葉にしていく作業を日課としてみましょう。すぐに語彙力が増えます。文章もうまくなります。観察、そして記憶の洗い出しという作業は、思考力のトレーニングにもなります……と私がもっともらしく語り続けても説得力に乏しいでしょうから、ひとつ、大文豪のお力を借りるとしましょう。

 十二月三日

○骨をひろふ為に落合迄行かなければならない。心持よくはれた。九時二十分車で家を出る。自分等夫婦と行徳と小一と夫から藤であつた。昨日の路を又通るのだから幾分かは親しいやうな氣がする。谷を隔てて目白臺のつゞきとも見える所に枯木と黄葉と常盤木と夫から麥の靑いのと大根の靑いと新らしい家が錯綜して見える。大部分葉を失つた大きなけやきの幹が道の左右にならんで高く立つてゐる。さうして其枝がファインに澤山かたまつてゐるから、ひとかたまりの樣でさうして其隙間隙間に空を割り込ませてゐる。夫から此高い木が左右に並んで路が少し廻つてゐるので丁度限界が三角(往來を横ぎる地平線をベースにした)細長く高い三角になつて其頂點は枝と枝の交叉した所にあるから道は暗い筈だが却つて通常の通である。枝の上の方に黄を根調にして靑を交ぜた樣な葉がついてゐるが、夫を一眼見ると不純に穂先を染めた繪筆でべつとり枝の上へなすり付けた樣である。たゞ光線の具合で角度の違ふ陰陽の違ふ葉が各自に色をなすとき一筆で引いたといふ感は消えて頗る複雑な(色以上に意味のある物質)に見えてくる。

○火葬場に着いて鍵はときくと妻は忘れましたといふ。愚な事だと思つて腹が立つ。家から此所迄四十分懸つてゐるから、今から取りに行けば往來八十分でさうして今十時だから十一時二十分になつて仕舞ふ。時間は十一時迄だから間に合はないかも知れないが、すぐ菊屋の若い男に藤を乗せて取りにやる。硝子戸から這入る日影を脊に縁臺に腰を掛けて三和土の上に両足を据えル。座敷には觀音の像がかかつてゐる。骨拾ひが二三組來る。一組は婆さん許りの四五人連であつたが、是は自分の羽織袴やら門内にて待つてゐる車やらに氣をかねたのか小聲で話をする丈であつた。脊の高いとかすりの着物を着た男の子は活潑に壺を下さいといふて一番安い十六錢程のを買つて行つた。三番目には散髪に角帶をしめた女だか男だか分らない人間と束髪と婆さんが來て、まだ時間はありませうねと聞いてゐた。退屈だから燒場の中を徘徊してゐると並等といふのにぽつぽつ眞鍮に○○○○殿とかいた札がかかつてゐる。然し鍵もなければ封印もついてゐない。裏には綺麗な孟宗藪がある。向に松薪が山の樣に積んである。其下は靑い麥畠で其先が又岳つゞきに高くなつてゐる。又茶屋の前へ來ると事務の男が出て來て犬にからかつてゐる。やがて十一時五分前頃に藤の車が歸つて來た。上等の壱號の前へ行くと昨日の花環が少し凋みかけて前に具へてある。御封印をといふから構はん明けてくれと賴んだらへいと云つて、おんぼうが鍵を入れてからかちやりと音をさせて黑い鐵の扉を左右に開いた。奥は薄暗いなかに灰色の丸いものやら黑いものやら白いものやらが一かたまりに見える丈である。いま出しませうと云つてレールを二本前へ繼ぎ足して鐵の環のやうなものを棺臺の端へかけて引張り出した。其内から頭と顏の所と二三の骨を出して後は綺麗に篩つて持つて參りませうと云ひながら入口に置いてある臺の上にそれ等を並べた。竹箸と木箸を一本宛にして吾等はそれを白い壺の中に拾ひ込んだ 腦を入れやうとしたら夫は後になさいましと云ふ所へ篩つた殘りを持つてくる。齒は別になさいますか、と聞いて齒を拾ひ分けてくれる 顎をくしやくしやとつぶして中から出したのもある。何だか白米を選り分けてゐるやうである。是が御腹の中にあるものですと綿の黑く燒けたやうなものを見せる。腸の事を云ふのか知らんと思つた。おんぼうの一人は箸で壺の中をかき交ぜて骨の容積を少なくする。最後に腦蓋を蓋の樣にかぶせて白い壺のふたを載せるとともに腦蓋はくしやりと破れて、ふたは隙間なく落付いた。手袋をかけたままのおんぼうが針金を出して夫を結ひてくれる。又木の箱の中に入れて風呂敷につつむ。車へのる時は自分の膝の上へ載せた。

○生きて居るときはひな子がほかの子よりも大切だとも思はなかつた。死んで見るとあれが一番可愛い樣に思ふ。さうして殘つた子は入らない樣に見える。

○表をあるいて小い子供を見ると此子が健全に遊んでゐるのに吾子は何故生きてゐられないのかといふ不審が起る。

○昨日不圖座敷にあつた炭取を見た。此炭取は自分が外國から歸つて世帶を持ちたてにせめて炭取丈でもと思つて奇麗なのを買つて置いた。それはひな子の生れる五六年も前の事である。其炭取はまだどこも何ともなく存在してゐるのに、いくらでも代りのある炭取は依然としてあるのに、破壞してもすぐに償ふ事の出來る炭取はかうしてあるのに、かけ代のないひな子は死んで仕舞つた。どうして此炭取と代る事が出來なかつたのだらう。

○昨日は葬式今(日)は骨上げ、明後日は納骨明日はもしするとすれば待夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考へると凡ての努力が無益の努力である。死を生に變化させる努力でなければ凡てが無益である。こんな遺恨な事はない。

○自分の胃にはひゞが入つた樣な氣がする。如何となれば囘復しがたき哀愁が思ひ出す度に起るからである。

○また子供を作れば同じぢやないかと云ふ人がある。ひな子と同じ樣な子が生れても遺恨は同じ事であらう。愛はパーソナルなものである。小村侯が死んでも小村侯に代る人があれば日本人民は夫で満足する。仕事の爲に重寶がられたり、才學手腕のため聲望を負ふ人は此點に於て其人自身を敬愛される人よりも非常な損である。其人自身に對する愛は之よりベターなものであつても移す事の出來ないものである

誰の日記か、わかりますか? そうです、夏目漱石です。大正八年に漱石全集刊行会より刊行された『漱石全集 第11巻(日記及断片)』から引用しました。五女ひな子が一歳と少しで亡くなった翌日以降を描写した、明治四十四年(1911年)十二月三日の日記です。

すごい。凄まじい。漱石はめちゃくちゃ観察しています。もう、目に焼き付いたすべての事象を言語化しかねない勢いです。お寺までいく前段も、火葬場についてからも、骨を拾うときも、これでもかと五感をフル稼働させて、全身全霊で自分の身の回りにあるすべてを感じ取ろうとしています。まるで、そうしないと、自分という正体が崩れてしまうのを恐れるかのように……。

観察するということは、とりもなおさず観察の主体である自分自身の思考を整理する作業でもあるわけです。その機能があるゆえに、小説家に限らず優れた表現者は丁寧に観察をします。入学試験にデッサン(素描)を課す美大・芸大が日本に多いのも、観察する力を試しているからなのです。裏を返せば、観察を疎かにしてしまうと、表現は上達しません。文芸表現においても同義で、観察をサボった文章はすぐにボロが出ます。客観性が薄くなるため総体的に主観(主張したいこと)も弱くなり、説得力のない文章になり、語尾語調も単調になり、やがて読者が離れていきます。
観察の練習を積めば、語彙力は増え、主観(主張したいこと)を伝える術において、耳を傾けてくれる相手が増えます。一種類の言葉では、特定の人々しか頷かせられません。さまざまな言葉を使えるようになることで、狭い範囲ではない、より広い社会に向けて、言葉を届けられるようになるのです。

さあ、改めて漱石の日記を読み直してみましょう。日本語という言語による表現の可能性を、ここまで提示してくれるテキストもそうはないと、文芸コース主任として断言します。語彙力もさることながら、文体のリズム、言葉のつながり、文章と文章の間(私はこれを「文間」と読んでいます)に横たわる、不可視ではあるが厳然と存在する思考……そうしたものがすべて凝縮されているテキストです。梶井基次郎じゃありませんが、文章そのものをうまく書けるようになりたいと願う方は、悪いことは言いません、原稿用紙とペンを持ち、まずは上記の引用箇所を丁寧に書き写すことをしてみてください。一度だけではなく、二度、三度と繰り返し、書き写しましょう。すると……着実に書く力が身につきます。

そうすることで、あなたの物語を伝えるべき相手(読者)がクリアになるかもしれません。そこそこ時間を使う作業にはなるでしょうが、文芸表現を学ぶ上では決してムダにはならないはずです。騙されたと思ってやってみてください。
日記は続けるのが大変だからイヤだ、という人は、上記でちらっと使った言葉、「言葉によるデッサン(素描)」という認識でも構いません。「よーし、今日は公園でデッサンをするぞ……ただし、言葉だけで!」という具合に。メモ帳を携えて電車に乗って、見える情景を目的地の駅につくまでじっくり言葉にしてみるだけでも練習になります。日常のどんなタイミングでも「言葉によるデッサン」は可能です。漱石の日記を繰り返し読み返してから、挑戦してみてください。

文芸コース主任 川﨑昌平

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