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2023年08月29日

【アートライティングコース】本を読むたびに蓄積してきた知識や語彙や物語のパターン認識、個々の本が持っているさまざまな要素を他の要素と関連づけ、いわば本の星座のようなものを作り上げる力。それがあるかないかが、書評と感想文の差を決定づける。(豊﨑由美)

こんにちは。
アートライティングコース教員の大辻都です。
夏もそろそろ終わろうとしていますが、皆さんはどんな夏を過ごされたでしょう。
私はと言えば、あまりの猛暑で外で行われている魅力的な催しを訪ねることも少なく、読んだり、書いたりのくり返し、まさにインドア派の日々を過ごした気がします。
翻訳書の校正、作家を紹介する解説文、翻訳、文芸書の書評……。いろいろな種類の日本語の文章を、どれもウンウン唸りながら書いていました。 

今日はそのうち書評を書くことについて話してみたいと思います。書評、またの名をブックレビュー。文字通り、本に批評を加える行為です。舞台評や映画評、音楽評と同じように、芸術・文化的な対象に、書き手ならではの「読み」を投げかけながら文章化することですから、これもアートライティングと言っていいでしょう。

かつてフリーのライター兼編集者をしていた時代から、書評は何度も書いてきました。私の場合、雑誌などから依頼される仕事の多くは新刊小説の書評でした。作家のインタビューなどもよくしていたので、何となく文芸領域が自分の専門となっていったのだと思います。大学院で研究をするようになってからは、外部に原稿を書く頻度は減りましたが、研究分野に近い本の書評をじっくり長めに書かせてもらう機会も出てきました。
もちろん他人が書いた書評を読む機会も頻繁にあります。豊﨑由美さん、大竹昭子さんはじめ、その人の手になる書評を読むと対象の本が読みたくなるという、自分にとっての信頼できる文筆家も何人かいます。
ここのところ、アートライティングとしての書評ということが頭にあって、書評って何だろう、どういう書評がいいのか、とよく考えています。書き手のオリジナリティを前面に出した批評文と比べれば、あくまで対象となる本が主人公の地味な存在。それでも魅力的な紹介に出会えば何としてもその本を読みたくなるし、書き手の見方に人生観すら変わりうるのが書評ではないでしょうか。
ずいぶん昔に読んだ豊﨑さんの『ニッポンの書評』を久しぶりに開いてみました。読み直してみたら、あらためて書評を書くとき、自然と自分に課していることがたくさん提案されていました。この本の影響かもしれないと思うところもありますし、実際自身で書きながら何となく自覚してきたことかもしれません。

本書ではまず、書評する上での大事な要素として、対象作品のレジュメ(「粗筋」)が挙げられています。あたりまえのようですが、書評の中で対象作品の概要を紹介することは絶対必要です。ろくに紹介もせずに自分の意見だけを書いても、読者にはもとの作品のイメージが掴めないし、せっかくの意見の妥当性も判断できませんから。
もちろん作品紹介ばかりで字数を埋めては、何のための書評なのかわかりませんが、あくまで簡潔に作品概要をまとめた上で書評に取りかかるというのは評者としてあるべき態度でしょう。これを無個性な作業としてつまらないことと、あるいは後ろめたいことと思うなかれ。まず、読解力が十分なければうまいまとめ方はできません。評者として最低限必要な能力ですが、そこをクリアしたとしても、意外なことに同じ本でも評者によってまとめ方は千差万別で、これもまた評者の個性が出るものとも言えます。そして、その本からどこを引用するかこそ、評者の腕の見せどころです。単に内容だけではない、その本の語り口の魅力を端的に伝えられるのが引用だからです。とはいえ、限られた字数の中に効果的に引用を入れるというのはなかなかテクニックの要ることで、私もいつも頭を悩ませているのですが……。

それから書評と読書感想文の違いについて。ある本を読んで、自分なりの見解を書くという意味では、どちらもほとんど同じ行為ということになるでしょう。ただし、活字メディアや公共性の高いウェブサイトのレビューコーナーでライターが書く場合、読書感想文とは普通呼びません。豊﨑さんはその違いについて次のように書いています。

 本を読むたびに蓄積してきた知識や語彙や物語のパターン認識、個々の本が持っているさまざまな要素を他の要素と関連づけ、いわば本の星座のようなものを作り上げる力。それがあるかないかが、書評と感想文の差を決定づける。今のわたしはそんな風に考えているのです。

 一冊の本を前にしながら、その本だけでなく「本の星座」を作る力。書評を読んでいて魅力を感じるのはまさにそんな力を目の当たりにした時です。一方、自分が書いていてしばしば感じてしまうのも、そうした厚みが出せないことに対する悔しさと情けなさ。過去の読書経験の豊かさはもちろん、経験を呼び出し、目の前の本に結びつけられる記憶力を駆使する人を心から尊敬します。
それから「牽強付会になって」はいけない、すなわち、対象の本を利用する形で、自分の思想、自分の論に無理やりこじつけるようであってはいけないというのも、極めて真っ当な考えで納得します。本の紹介をしているようで、結局自分の哲学、思想の開陳になってしまっている。私も含め、ついやってしまいがちなことですが、あくまで対象の本について伝えることを心がけたいものです。

そう、ここしばらくあまり書く機会がなかったのですが、書評について考えるなら、自分で実践しなければと思っていました。
この春、アートライティングコース研究室で『綴』というZineを作ったのですが、私は「アートライティングを読む」と題し、10冊ぐらいの本の書評集としました。一冊当たり数行ずつぐらいでしたが、短文で自分が考えるエッセンスを書き出すのは工夫のしがいのある楽しい作業でした。
また、「書評を書きたい!」と方々に宣言していたら、運よく何本かの依頼が舞い込みました。
この夏に書いたのは、フランスのノーベル賞作家パトリック・モディアノの最新作『眠れる記憶』という小説集についての3000字ぐらいの書評です。
「記憶に洞(うろ)があったところで、人生のあらゆる事柄は隠顕インクでどこかしらに書かれてはいる」という箇所を引用として選んだのですが、この引用と紐づけながら、記憶の断片をかき集めて過去を再構成しようとする語りを巡って考察するのにかなり難儀しました。

書評における「ネタバレ」については意見が分かれるところです。映画同様、ミステリー小説などではストーリー展開こそミソですから、ネタバレ厳禁というのは常識でしょう。それでは、ストーリーだけが読ませどころではない文芸作品などはどう考えればいいのか?
豊﨑さんは「これからその本を読む人の読書の興をそいではならない」というのが、本書を書いた時点での考えだと書かれています。
ですが、評者が対象作品の中で独自に読み取ったものを書評に書きたいと思った時、その「気づき」がいわゆる「ネタバレ」と重なってしまうことも出てくる。実は上述のモディアノの書評の中で、私はその禁に触れているとも言えることを書いており、最後までその部分を消すか消さないか迷いました。迷った末に消さずに残しました。
たぶん8月の終わりぐらいに『図書新聞』に掲載されますから、興味のある人はどうまとめたかご覧になってください。

過去に書いたものも少し思い返していて、今から10年ほど前に古川日出男さんの小説『南無ロックンロール二十一部経』について書いた書評を見つけました。作家ご本人に「面白い書評だった」と言われて舞い上がったのを覚えていますが、今読むと我ながら気合いが入り過ぎていてびっくりです。いい書評って何なのか、普遍的な答えはないのかもしれません。

参考文献:豊﨑由美『ニッポンの書評』光文社新書、2011

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