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アートライティングコース

2023年11月24日

【アートライティングコース】「おらあとうの村の歴史は、おらあとうの手で明らかに」 ──井戸尻考古館建館50周年記念講演録(2008年)

ようやく寒くなったことにほっとするこのごろですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
アートライティングコース非常勤教員の青木由美子です。寒さに安堵するなんて考えてみればおかしな話ですが、暑さに翻弄された日々を過ごした後は、気温の変化にひときわナーバスになるものですね。さて、このブログが掲載されるちょうど一か月前の1021日、私は「高原の縄文王国収穫祭」なるイベントを見るために長野県富士見町を訪ねていました。標高800メートの寒冷地ですが、用意したコートを着るまでもない暖かさで落ち着かない気分だったことをふと思い出しました。



「高原の縄文王国収穫祭」は、独自の縄文研究で知られる井戸尻考古館が主催する秋の恒例イベントです。館長、学芸員、スタッフ総出演で5000年前の祭式や踊りを、“おそらくこうであろう”という姿で再現し披露してくれます。今年の収穫に感謝し、来年の豊作を願う式の内容は「初穂の奉納」「神話の再現」「くく舞の奉納」の3つのパートがあり、式での所作振る舞い、音楽などすべて井戸尻考古館が独自に考案したそうです。身に着ける衣服や装飾品、式に使う土器や土偶は考古学的検証のうえで復元手作りし、奉納する雑穀や食用植物は専用の田圃で学芸員が栽培したものです。
この日は快晴、ときどき強い風。抜けるような青空のもと、芝生に覆われた丘のステージで、縄文人に扮した男女10人余りが祝詞をあげ、音楽を奏で、粛々と祈りの儀式を執り行っている光景は、コスプレめいた可笑しさもあり、のどかでもあり、私は不思議な気分で眺めていました。
できるだけ縄文人の暮らしや振る舞いに近づくことで、彼らの宗教観や文化を実践的に探求するのが井戸尻考古館の研究スタイルなのだろうと、この時は思いました。けれどその後、少し調べてみたら、どうやらそればかりではないようです。井戸尻考古館は、考古学界において異端とされています。縄文時代にすでに農業があったとする「縄文農耕論」を唱え、また土器や土偶の文様から彼らの精神世界を紐解く「縄文図像論」など、考古学の主流から外れた道を堂々と歩いているユニークな研究施設でした。なるほど!「収穫祭」は自らの学問的主張を目に見える形で演劇的に再現するステージだったと気づきました。いわば一種の広報活動でしょうか。いいアイディアだと思いました。歌い、踊る、は宣伝の原初的形態ですから。事前に予習して祭式の意味や意図が分っていればより興味深く観られたでしょう。自分の不用意さを少し後悔しました。



「おらあとうの村の歴史は、おらあとうの手で明らかに」─最初に掲げたこのフレーズは現館長の小松隆史氏が建館50周年記念講演録(2008年)のために作ったと聞きました。「おらあとう」はこの地域の方言で「俺たちの」を意味しますが、なぜそこが強調されるのかというと、1958年この地で初めて遺跡を掘り出したのは地元の農家の人たちと若手として駆り出された高校生、いわば素人地元民の集まりだったからです。きっかけはその2年前、勉強会に招いた諏訪の考古学者、藤森栄一氏が「君の足元には縄文人が眠って掘り出されるのを待っている」と檄を飛ばしたことでした。そこで奮起した住民が掘ってみると、土器や石器が文字通りザクザク出てきました。これが3月のこと、4月には井戸尻遺跡保存会を発足、7月に復元住居を建て、9月には土器展示会を開催するという驚異的な速さで井戸尻考古館の基盤が固まったのです。藤森氏の著書『縄文の八ヶ岳』(1973)には「俺たちの村のことを人に聞くなんて恥ずかしいことだ。俺たちの村のことは俺たちの手で掘り起こしてみようという気運になった」と記されています。そして、このスピリッツは以来60年以上、地元の人たちの中に生きているといいます。
ここから縄文農耕論へとつながるストーリーは実に興味深くエキサイティングですが、ご興味のあるかたは下記のYouTubeチャンネルをご覧ください。本稿はアートライティングコースのブログなのでここから話題を言葉へフォーカスします。

井戸尻考古館の活動を追って、書籍やホームページ、展示リーフレットなど見ていると、冒頭のフレーズがたびたび登場します。「おらあとうの収穫祭」のように部分的に使う例も多く見られました。とてもキャッチーで物語への想像を刺激されるフレーズですが、なんといっても「おらあとう」という方言を使っている効果が大きいと感じます。意味内容がほぼ同じの文言は前述したように’70年代の資料にありますが、そこでは「俺たち」という言葉が使われていました。1988年の建館30周年記念講演録では、さらに古い発掘のエピソードを紹介するなかで「おらあとうの村の遺跡は……」と方言使いが初めて登場します。そして更に20年後の2008年、現行のフレーズが建館50周年記念講演録の表紙に掲げられ、外に向かってアピールする広告コピー的役割を担うようになりました。このような言葉の扱いの年代別変化は、方言の社会的イメージの変遷に重なっているといってよいでしょう。

澤村 美幸著『方言と日本のこころ』によると、日本における方言のイメージは80年代にネガティブからポジティブへと劇的に転換したといいます。井戸尻の縄文遺跡が発掘され始めた1958年から1960年代は、方言コンプレックスという言葉が生まれ、方言は恥ずかしいと感じる人が大半を占めていました。その後、共通語化が進み方言を話す人が減っていくにつれ、方言の価値を見直す流れが強まります。’80年代からは方言への関心が爆発的に高まり、方言にからめたイベントや方言を使った標語、広告、ポスターが多く出現しました。2000年代に入ると方言のイメージはすっかりポジティブになり「地元の言葉を堂々と使う」だけでなく、いろいろな方言をコミュニケーションを豊かにするツールとして駆使する動きが若い世代を中心に広がって、方言のアクセサリー化、コスプレ化という言葉も生まれました。2022年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに関西方言の「知らんけど」が入ったのは記憶に新しいところです。
2008年に「おらあとうの村の歴史は、おらあとうの手で明らかに」というフレーズが生まれたのは、このような時代背景とリンクしているように見えます。注目を集める手段として方言を戦略的に使える時代になったのです。それから更に15年が経った2023年の現在、方言は従来の温かく懐かしく地元への一体感を呼び起こす言葉というイメージとは別に、ポップで今どき感のある魅力的な言葉として広がっています。昨今は、富士見町でも方言を話すのはかなり高齢の方だけだそうです。もしかしたら地元の方にとっても「おらあとう」は、もはや目新しく新鮮な言葉になっている可能性があります。「知らんけど」

今回は方言について考えてみましたが、手ごわいです。気取らない温かみのあるイメージが効いているのか、目新しくウィットのある表現としてアピールしているのか、なかなか判断がつかないところが方言を使った文章の面白さだと感じ入りました。

 そうそう、映画「スウィングガールズ」(2004年)のキャッチフレーズ「ジャズやるべ!」はよかったです。

 

保存会 https://www.youtube.com/watch?v=bfWMUuMBscw&t=18s
くく舞 https://www.youtube.com/watch?v=32YNxkBTgu4&t=592s
縄文農耕論https://www.youtube.com/watch?v=lsGm4HEpi3I
澤村 美幸著『方言と日本のこころ』NHKテキストこころをよむ20237月-9

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