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文芸コース

2024年02月03日

【文芸コース】書を捨てよ、書店に行こう。

皆さん、こんにちは。文芸コース主任の川﨑昌平です。

表現を学んでいると、折に触れてインプットの重要性を助言されることがあるかと思います。私自身、学生時代はしょっちゅう、美術館に行け、ホンモノを見ろ、アートを体験しろ……と同級生や先輩諸氏からアドバイスされた記憶があります。大学で教えるようになってからはやはり、映画を観なさい、マンガや本をたくさん読みなさい、なんでもいいからMUSEUMに足を運びなさい……などと主張しています。

ですが、疲れていたり、やる気が起きなかったりするときは、正直に言えばインプットするのもシンドイものです。皆さんも「読みたい本があるけど……読む元気が湧かない」とか「読めって言われてもなあ……なんか疲れちゃったよ」とか、そんな気持ちになるときが、きっとあるのではないかと推測します。
そうした感情を私は否定しません。誰であってもそういう瞬間に陥ることは、ままあります。読む気力がないときに、無理やりページに目を落としても、ちゃんと読むのは難しいものです。ですから、インプットに疲れたときは、休んでいいんです。

その上で、効果的な休み方を皆さんにお伝えしたいと思います。それは……書店に行くこと。「えっ、読む気力が湧かないのに、本屋さんに足を運べって?」と驚かれるかもしれませんが、実はこれが効くのです。

書店には当然ですがたくさんの書籍・雑誌が並んでいます。そこには紐解くまでもなくたくさんの文字や言葉や表現たちが刻まれていることを私たちはよく知っています。そうした空間において、インプットの欲求を持たぬまま佇んでみると……すぐに気がつくのです。居並ぶ本たちが、ただの一冊として、「私」を見ていないことに。
本と読者の関係性は、一方の当事者になってしまうと、一対一の構造で形成されている……ように感じてしまいます。自室の本棚に読まれないまま、積まれたままの本と目が合うと、本から「はやく読んでくれよ」と急かされているような気分になってしまう経験、私にもあります。でもそれは、私がその本の読者になろうとした過去があるから、そうなっているだけの話に過ぎません。ですが、実際の本は、複製技術に拠って立つメディアであり、ひどく当たり前のことですが……同じものがたくさん印刷・製本されているわけです。

その前提に立ち返って、書店に赴き、店内でただ一人、目的もなく立ち尽くしてみるとしみじみ実感できるはずです。数多くの表現たちは決して私を、あなたを、名指しで読者に仕立てているのではない、と。無論、そこに悲劇を見出す必要はありません。テクノロジーの進化によって変質した多くのメディアに触れてしまうことで、昨今は表現とユーザーの関係性が双方向的であるかのように誤解してしまう側面が多々ありますが(別にそれを悪く言うつもりはまったくありません。インタラクティビティを大切にするメディアもまた、おもしろいものだと私は感じています)、少なくとも紙の書籍・雑誌においては、発信と受信は非対称です。その構造の持つ意味を、書店で空気として感じ取ってみましょう。するとすぐに「読まなければいけない本」など、ないのだとわかります。人文学的な学問領域における言い回しとして「読まなければいけない」には有効な側面もありますが、あくまでも主体は読者である私やあなたであって、すなわち私やあなたが初めて「読みたい」と感じたとき、本にとっての読者が誕生するのです。

本があなたを見ていないとき、あなたも本を見なくともよいのです。あなたが本に向き合おうとしたとき、初めてある本が、ある書籍が、ある表現が、あなたにとっての「読むべき本」となり、あなたがするべき「インプット」へと発展するのです。

書籍メディアにおけるイニシアチブは本にあるのではなく、読者にこそあります。その当たり前の事実を再確認できる行為、それが書店に行くこと……なのです。私なんぞは、疲れたときは書店に出かけるたび、「そうか、俺は自由なんだ。好きな本を好きなように読んでいいんだ」と心が落ち着き、すると自然、「ああ、これ読みたいな」と本に手を伸ばし、本を購入して書店を出る頃には「よおし、今度はこういう表現をつくろう!」と気力を充実させるようになります。私が単純な性根の人間だからということを差っ引いたとしても……書店には、そうした根源的なパワーがあるように、この頃は強く感じます。

文芸コース主任 川﨑昌平

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