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通信制大学院

2024年10月11日

【通信制大学院】文芸領域教員コラム「私が書いて私を知る」(作家 佐藤 述人)



文芸領域への入学を検討されている「作家志望者」「制作志望者」に向けて、本領域の教員がコラムをお届けします。

今回は作家佐藤 述人さんのコラムをご紹介します。


【佐藤 述人】(さとう・じゅっと)


1995年、東京生まれ。2018年に小説「ツキヒツジの夜になる」で第24回三田文学新人賞を受賞。他作品に「墓と園と植物の動き」(『江古田文学』)、「つくねの内訳」(『三田文學』)など。論説に「越境による境界」(『江古田文学』)など。
京都芸術大学通信制大学院文芸領域・非常勤講師。



「私が書いて私を知る」


 いま、目の前に正五角形があれば、おそらく僕はひとめ見て、つまり角や辺の数や形をいちいち調べるまでもなく直観的に、それを五角形だと知ることができるでしょう。けれどもそこにあるのが正百角形だとしたら、僕はその図形の角のひとつひとつに印をつけながら順に数え上げない限り、それを百角形だと知ることがないように思います。同じように、自分が何を考えているのかも、僕は文章にしてみなければわからないのです。そしてこれは、そう意識しているかいないかは別にして、多くの人々に共通して言えることだろうと思います。
 思考を構成する素材が言葉なのだとすれば、僕はせいぜい三行分くらいしか一度に(明晰には)思考することができません。でも言うまでもなく三行分のことしか考えていないわけではありません。だから僕は、正百角形の角に印をつけていくように文章を重ねていき、論理と文脈とストーリーの力を借りることで、やっと自分が何を考えているのかわかる、そういう実感があるのです。僕が文章を書き続けるのはそのためです。自分が何を考えているのか知りたいからものを書いている。そしてもっと上手に書けるようになって、もっと詳しく自分が考えていることを知りたい。また、そのように望むとき同時に僕は、文章を鍛えることの豊かさと大きさを強く賛美せざるを得ません。僕らは自らの思考を通してしか世界を認識できませんから、自分の考えていることをより十全に知ることはそのまま、世界をより十全に知ることでもあります。ならば、文章鍛錬によって自分の考えをより十全に知れるようになるのであれば、その鍛錬は同時に、世界をより十全に知れるようになることへも繋がっているのです。

 ところで僕は、文章を鍛えることとはすなわち「確信」のある言葉だけを用いてものを書く技術と態度の探究のことだろうと考えています。小林秀雄は岡潔との対談のなかで「いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです」と言いました。これはいまでも有効な言葉でしょう。とりわけ大学という場においてはよけい、小林の言うような「学説」や「知識」を並べるばかりの文章が書かれがちのようにも思います。社会的な意義や新規性があると他人から認められるかどうかを勘定して、勘定に照らしてみて成果を期待できるかどうかを測り、そしてそれが短期的に形になるかどうかも測り、そのように計算した基準で研究対象やアプローチの方法を選んで、しかもそれを、評価を得やすいと想定されるスタイルで阿(おもね)って書いても、自分が何を考えているかについて詳しく知れる見込みはあまりないような気がします。もちろん過去の作品や言説や研究を参照したり引用したりすることも必要ですし、歴史に位置づけることなく自らを省みることは難しいだろうと考えますが、その参照や引用を、先に言ったような阿りのためにおこなうのであれば意味がない。そもそも本来、「確信」を通った咀嚼がなければ参照したことにはならないでしょう。ここで僕は、他人の理解や共感を得られなくていいと言うのでも、客観的な視座が欠けていていいと言うのでもありません。客観的説得性のない論理は自らに対しても齎すものが少ないと思われますし、理解や共感を広く得られない形式で書かれたものは自らをも納得させないでしょう。「確信」を書くことは独りよがりになることではないのです。独りよがりになっては「確信」を書くこともできないのだと言ってもいい。加えて、そう考えてみると「確信」から出発しない限り究極的にはむしろ、他者に開かれることもまたないのではないかとも思われてきます。

 むろん、そうは言っても最終的には、どのような文章をどのようなスタイルで書こうと否定されるべきではありません。しかし少なくとも僕は「学説」や「知識」だけをおっかなびっくりそれらしくなるように連ねたものは書きたくない。繰り返しになりますが、「確信」をもった張り合いのある言葉だけで自らの表現を究めたいのです。当然現状としては、貧しいものばかり書いているのではないかと、まだ足りないのだと、もどかしくなる日があるのも事実です。満足できない。もっとたくさん練習して、更により十全な技術と態度を身に着け、更により十全な認識に近づきたい。だから僕はこれからも力の限り以上に物語を紡ぎ続けたいと考えています。

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説明会情報


【2024年10月16日(水)19:00~20:30】
文芸領域 特別講義(1) 小説ゼミ編(第一部)
「普遍的な物語を書くために――物語の「技術」を学ぶ場――」
たとえ紙媒体が衰退し、本が読まれなくなっても、「物語」なるものは人類にとって普遍的な価値をもち、きっといつの時代にも、ひとびとのこころを惹きつける何かであり続けます。
“いつか自分の手で、自分にしか書けない「物語」を書いてみたい。けれど、何をどうすればよいのかわからない”。
こうした思いが、「自分にも書ける」という確信に変わる場が、この大学院文芸領域にはあります。「物語」創作の最前線について、そしてその明るい展望について、以下の登壇者がお伝えします。

登壇者一覧)
■小説ゼミ2(主としてエンタテインメント小説ジャンル)指導担当者
*松岡弘城(編集者)

ゲスト)
■非常勤講師(*学生作品評価添削担当)
*藍銅ツバメ(作家)
*あわいゆき(書評家)

司会進行)
*辻井南青紀(作家/文芸領域長)

【2024年11月7日(木)19:00~20:30】
文芸領域 特別講義(2) 小説ゼミ編(第二部)
「物語の新しい可能性を問う――「マーケット」の影に隠れたもの――」
この数十年来、真摯に世界と向き合ってその意味を鋭く問い直す「純文学」や「現代文学」なるジャンルの作品は、一般的にあまり読まれなくなりつつある、ように見えます。
しかし、物語を通してこの世界のありようを確かめ、探求を続け、新たな道を模索することに、もう希望は見いだせないのか。それとも、いまだ省みられていない、新たな可能性の萌芽があるのか。
気鋭の文芸評論家、作家、書評家とともに、こうしたことを大学院という学びの場でいったいどれほど追求できるのか、その可能性を探ります。

登壇者一覧)
■小説ゼミ1(主として純文学ジャンル)指導担当者
*池田雄一(文芸評論家)
*藤野可織(作家)

ゲスト)
■非常勤講師(*学生作品評価添削担当)
*あわいゆき(書評家)

司会進行)
*辻井南青紀(作家/文芸領域長)

【2024年11月20日(水)19:00~20:30】
芸領域 特別講義(3) クリティカル・ライティングゼミ編
「人の心を動かす文章とは――自ら発信する時代のライティングスキルーー」
ブログやSNSなど、いまや誰もが簡単に世界に向けて文章を発信できる時代。うまいだけではなく、もっと読みたいと思わせるにはどうしたらいいのか──。
エッセイ、書評、取材記事にコラム、あらゆる文章に対応するスキルは、誰にでも身につけられるもの。文章力なんてあとから付いてきます。人文書から実用書までさまざまなノンフィクションを手掛けてきたベテラン編集者2名が、伝わる文章の秘訣と当ゼミで学べることについてお話しします。

登壇者一覧)
■クリティカル・ライティングゼミ 指導担当者
*田中尚史(編集者)
*野上千夏(編集者)

司会進行)
*辻井南青紀(作家/文芸領域長)

↓説明会の参加申し込みは文芸領域ページ内「説明会情報」から!

▼京都芸術大学大学院(通信教育)webサイト 文芸領域ページ


文芸領域では入学後、以下いずれかのゼミに分かれて研究・制作を進めます。

●小説創作ゼミ


小説、エッセイ、コラム、取材記事など、広義の文芸創作について、実践的に学びます。

●クリティカル・ライティングゼミ


企画、構成、取材、ライティングから編集レイアウトまで、有効な情報発信とメディアのつくり方を実践的に学びます。

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