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2024年11月28日

【芸術学コース】京都の学問とベトナムの近代美術―第10回「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」

みなさん、こんにちは。芸術学コース教員の石上阿希です。11月というのに夏日を観測するような不思議な天気が続いています。それでも京都の木々は綺麗に色づき始め、しばしの秋を感じる日々です。

 さて、今回は114日に開催された第10回「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」について紹介します。芸術学コースでは毎年秋に特別講義としてこの会を開いています。コロナ禍前はタイトルの通り参加者がお菓子を持ち寄って気楽に先生方のお話を聞く催しでした。今年は久しぶりに対面での開催も復活しましたが、お菓子はまだお預けとなりました。来年こそはと思います。

 この会では毎回様々な分野の研究者、専門家をお招きしていますが、今回は2名の先生をゲストとしてお迎えしました。お一人は長らく本コースで教鞭をとられ、現在も本学の名誉教授として講義を担当されている梅原賢一郎先生です。

 梅原先生のお話「京都の学問」は、学問に地域性はあるのだろうかという問いからはじまりました。京都には今も昔も色々な学者がいますが、特に京都大学のある左京区はそこかしこに学者たちが「生息」しています。先生自身も京都生まれの京都育ちで、京大には歩いて通っていたそうです。左京区で学び、研究を深めていった様々な学者たちの言葉から、どういった学問の風土が浮かびあがるのか。時折クイズも交えながら先生のお話は楽しく進みました。
最初に出されたクイズとして法然院近くの記念碑が映し出されました。

「人は人われはわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなり」。これは哲学の道という名前の由来にもなった西田幾多郎(1870―1945)の句です。西田は哲学者でしたが歌も詠みました。梅原先生が紹介した「あさに思ひ夕に思ひ夜におもふ思ひにおもふわが心かな」(「昭和九年一月」『西田幾多郎歌集』2009※註1)という句からは、思索に思索を重ね、勉学に向かう姿が思い起こされます。
生物学者の今西錦司(1902―1992)は『生物の世界』(1941)の中で「大学というところは、天下の浪人をかかえておくぐらいの、ゆとりをもってほしいものである」と述べました。何をやっているか分からない学生や学者が存在できる世界であれということでしょう。「万年講師」とよばれ、晩年にようやく教授になったとき「天才だと思っていたら普通になりましたね」と言われた人です。今西は鴨川で石をひっくり返してはカゲロウの幼虫を収集・研究していました。今西生物学のキーワードは「棲み分け」です。動物の社会は対立するのではなく、うまく環境を棲み分けて共存しているものだとする説を提唱しました。
この考えは、今西のもとでサル学を学んだ河合雅雄(1924~2021)の次の言葉にもどこか通じています。
私は学問の世界においても、妙な言い方だが、雑木林をもって理想としている。さまざまな生き物が大きな動的な調和の世界でおのれの命をたくましく生きている姿は、それぞれの個性や資質を果てしなく伸ばしていこうとする人間の姿を彷彿とさせる。

(『学問の冒険』2012


そういった人間を認め、温かく見守る風土が当時の左京区―京大―にはあり、学生・学者にとって棲みよい環境だったのです。
今回のお話は、学者たちが歌や随筆などに残した言葉を拾い上げながら、京都の学問の本質がどこになるのかという問いを考えていくものでした。時間切れで残念ながらじっくり説明されませんでしたが、京都という土地の学者分布図も用意されていました。鴨川沿い、白川付近、東山…。様々な場所に、相似し、相違する多くの学者たちがそれぞれ棲み分けながら協調して存在している。非常識で風変わりな学生、学者を大切にする風土があり、それがこの土地の学問を育てたのだと、先生のお話の中で読み上げられた何十もの文章からその一端を知ることができました。




 

もうお一人は関西学院大学で東アジアの美術・芸術に関する近代化について研究されている二村淳子先生です。二村先生は2021年に『ベトナム近代美術史 フランス支配下の半世紀』を原書房から上梓され、第20回木村重信民俗藝術学会賞を受賞されました。

当日は「ベトナムとフランス:交差する藝術」のテーマで特に第1世代画家と呼ばれた人々の絵画を読み解いていきました。ベトナムの近代美術と聞いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。浅学の身としては、画家の名前や代表的な作品名も挙げられず、そもそもどのような歴史があるのかも把握していませんでした。二村先生は、第1世代の作品を考える前に、ベトナムにおける前近代の絵画事情や「美術」という言葉の翻訳、「美術」教育の歴史などをお話しされましたので、ベトナム近代美術史の入門編としても多くの学びがありました。
前近代のベトナムには個人としての画家―西洋美術的な画家―はいませんでした。画家と言えば民衆版画(ドンホー)や偉人の肖像画を手がけた職業画家たちであり、個人名を使って活躍する人はほとんど確認できていません。
そんなベトナムに「美術」という言葉が入ってきたのがフランス統治下の時代でした。「Beaux-arts(ボザール)」を言語学者が「美術」と翻訳し、言葉と概念が広まっていきます。1925年には官製学校であるインドシナ美術学校が設立され、フランス美術教育と同じデッサン重視の教育を行いました。当初、政府は工芸品を作って外貨を稼いだり、派遣することができるデザイナーを輩出する学校を目指していました。これは日本の農民美術運動を参考にしたものです。しかし、ここで学んだ第1世代の画家たちは売り物ではない純粋美術を極めることを志していました。ベトナムとフランス、それぞれの思惑の間でベトナムの美術・工藝は展開していきます。
お話の後半では、第1世代の画家たちの作品と日本の浮世絵との類似性についてみていきました。例えば櫛で髪を梳く女性。突風に翻った裙を押さえる女性。暮らしの中にある女性の仕草の美しさを表現する画題は、鈴木春信(1725? ―1770)や喜多川歌麿(1753? ―1806)といった浮世絵師たちが得意とした画題です。梅忠恕(マイ・トゥ、1906―1980)をはじめとしたベトナム美術の作品にはこういった日本的画題の作品がいくつもあります。浮世絵が直接ベトナムに持ち込まれたのではなく、フランスのジャポニスムを経由してベトナムに影響を与えたのです。ある意味、文化が東アジアへ回帰したといえるでしょう。
このように、ベトナム近代美術の作品には、西洋的な美術の枠組のみでは語れないものが多くあります。比較文化の立脚点からベトナム近代美術を考えていく二村先生のお話からは、ベトナム・フランス・日本の間を往還しながら交流・発展していく文化事象の有り様がみえてくるようでした。

それぞれの先生には1時間ほどお話をいただきました。充実の内容であっという間に時間がきてしまった感覚は私だけではなかったようで、多くの参加者から「もっと聞きたかった」と感想をもらいました。
来年もまた楽しい学びの時間を企画したいと思います(今度はお菓子もいっしょに)。

 「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」については過去の記事もぜひご覧ください。

【芸術学コース】第4回「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」


 

註1 なお、西田静子『父西田幾多郎の歌』(1948)には同じく昭和9年1月の歌として「あさに思ひ夕に思ひ夜におもふ思ひにおもふ我思ひかな」の歌が載る。

 

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