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- 【アートライティングコース】「ええ。だって私はあなたとは結婚なんてできないから。あなたは私の心のなかで、他のだれにも替われないような場所を占めているけど、私はこの土地に縛りつけられていると不安なの」サリー・キャロル・ハッパー(F. S. フィッツジェラルド「氷の宮殿」の登場人物)
2025年09月03日
【アートライティングコース】「ええ。だって私はあなたとは結婚なんてできないから。あなたは私の心のなかで、他のだれにも替われないような場所を占めているけど、私はこの土地に縛りつけられていると不安なの」サリー・キャロル・ハッパー(F. S. フィッツジェラルド「氷の宮殿」の登場人物)

冒頭に記したのは20世紀はじめに活躍したアメリカの小説家フィッツジェラルドの短編「氷の宮殿」(1920)の一節です(筆者拙訳、以下同じ)。南部(ジョージア州)の田舎で暮らしていた女性が、婚約者の住む北部(ノースカロライナ州)を訪ねる旅をするのですが、気候や土地柄の違いに次第に違和感を抱き、ある事件がきっかけで猛烈な帰郷の衝動に襲われる、というようなお話です。主人公の女性サリー・キャロルは生まれ育った町を愛してはいるものの、惰性的に過ごす自分の人生に不安も持っています。9月の暑い日の午後、彼女が眠たげに窓の外を眺めていると、地元の男友達が古いフォードを運転してやってきて、彼女をプールに誘います。北部の青年と婚約したことを知った彼が、悲しそうに「もう行ってしまうのかい」と尋ねると、サリー・キャロルは冒頭に記した返事をします。幼馴染が愛してくれる、眠たげで昔ながらの自分だけでなく、自分には活動的な半面があって、故郷にとどまる限り、「自分を無駄にしてしまうような気がする」というのです。
ここでは、サリー・キャロルという人物のアイデンティの問題が、北米の南と北という地域の風土のコントラストともに描写されています。温暖で色彩豊かな南部と、寒冷な気候でモノトーンな北部との違いは、それぞれの住民の性格の違いでもあります。南部の人々は親しげで明朗、でも気怠く保守的です。北部の人々は活動的・進歩的ですが、どこか他人行儀で物憂げです。このような南北の差はこうしたフィッツジェラルドの小説に限らず、しばしば文学・芸術で好んで扱われる主題です。トーマス・マンも繰り返し詩人的・感情的な南方と実務家的・理知的な北方というテーマで小説を書いていますし、もっと広く見れば、西欧の近代性と知性に対する南方や東方の過去性・官能性という、オリエンタリズムのステレオタイプにも通じる二項対立です。
このように地域や住民を一括りに表現するのは乱暴なことですし、個々の差異を見逃してしまうおそれが十分にあります。京都人には裏表がある。沖縄人は時間にルーズだ。パリジェンヌはおしゃれ。ベルギー人は食いしん坊。インディアンは嘘をつかない。あたっている面がなきにしもあらずかもしれませんが、しかしまた、どこまで本当かなあという紋切り型はたくさんあります(フィッツジェラルドの小説中でも、北部の人間は「スウェーデン人」のように「暗く憂鬱」だと書かれます)。そして平板な均質化はそれぞれの土地の本当の個性や良さを塗りつぶしてしまうどころか、さらには差別や偏見の温床にもなりかねません。
しかし、そのような紋切り型は、まったく害悪をなすものでしかないのでしょうか? 実はそうでもありません。そもそも私たちが世界を認知するときにはどうしても類的なものの見方をせざるをえません。また異文化や他者を知るうえで、一足飛びに微細な個性が理解できるものでもなく、おおまかな輪郭をつかんでから、時間をかけて徐々にその像を精緻なものに作り変えてゆくというのが普通です。紋切り型は、他者の代理人としては役不足ですが、媒介人として役立ちます。そして芸術の世界でも、優れた作品が実際にやっているのは、共有されている紋切り型から出発するにせよ(これはとりわけ言語や常識を手段に使う文学・舞台芸術では避けがたいことです)、それを裏切るくらいに豊かな現実を活写することでしょう。誰もが知っているイメージを再生産するのは、さほど努力も要りませんし、それを見ても「フフン、なるほど」と少しばかりの安堵感を得られはしても、それ以上のことはない、つまらない話に終わります。しかしその紋切り型をいわば踏み台にすることで、より生き生きとした土地や人間の描写へと進むことができます。南部の気怠い世界に生きているサリー・キャロルは、同時にその南部らしさに自覚的で、そこに収まらない自分自身を感じ取っていました。フィッツジェラルドが型にはまりきらないサリー・キャロルを描いたことで、なおのこと彼女の現実味を作り出しています。紋切り型からの微妙なズレや距離の感覚によって対象の個性が際立ちます。
そうした個性は、頭にインプットされた紋切り型だけしか持っていなければ、やすやすと逃れさるものでもありますが、その個性を掴むためには、やはりその土地の空気を吸って、その土地の人と接することがなにより大事でしょう。とんでもなく想像力豊かな人は、そんな経験も不要かもしれません。しかし想像力がなくても、また想像力があればなおのこと、その土地や人と関わることが自分の見方を変えてゆきます。土地も人も、当初の漠とした第一印象はどんどん変化します。この変化を身をもって経験することこそが、土地との付き合いであり、理解でもあります。
「サリー・キャロル・ハッパーは、顎を腕の上に乗せ、その腕を古い窓台に乗せて、眠たげに土埃のきらめきを眺めやっていた。この春はじめて陽炎が立っていた。」
小説の終わりの方の部分で、サリー・キャロルは帰ってきた南部の自宅でくつろいでいます。「古い」とか「眠たげ」という南部の属性がここでも繰り返されます。しかしもはや、それは誰もが知っている単なる紋切り型ではなく、北部でのショッキングな出来事を経験したサリー・キャロル自身にとってかけがえのない特別な感慨を伴った郷里の符牒です。彼女が帰郷して見ている南部の風景は全く同じではなく、それは馴染んで倦んだ感覚と同時に、ようやく自分の居場所を取り戻したという確信と安堵、そしていくばくかの挫折と諦念が混じった風景です。読者も彼女とともに、ジョージアの田舎の気怠さを、また新たなニュアンスとして受け止めることでしょう。
アートライティングコースは小説を書くコースではありませんが、土地の記述や風土の描写を行うことは十分あると思います。その際にも、紋切り型との距離感を保持しつつ、自分なりの土地の経験を豊かに言語化してください。
私はこの土地に縛りつけられていると不安なの」サリー・キャロル・ハッパー(F. S. フィッツジェラルド「氷の宮殿」の登場人物)
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