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歴史遺産コース

2026年04月03日

【歴史遺産コース】 朱が語る弥生の王たち ― 吉野ヶ里遺跡と奴国の関係を探る

こんにちは。業務担当非常勤講師の河野摩耶です。
今回は、近年ニュースでも大きく取り上げられた佐賀県の吉野ヶ里遺跡を題材に、弥生時代の王と北部九州の政治勢力との関係について考えてみたいと思います。特に、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓で出土した副葬品や赤色顔料「朱(HgS)」の産地に注目しながら、弥生社会を牽引した北部九州の大国、そしてその一つである奴国の王との関係を探っていきます。

佐賀県吉野ケ里遺跡全景
(https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498より引用)



それは、朱という物質の産地を手がかりにすることで、弥生時代の政治的ネットワークや権力構造の一端を明らかにすることができるからです。

まず、弥生時代の倭人の姿を伝える史料としてよく知られているのが、中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」です。この史料の冒頭には、「倭人は帯方郡の東南海中に在り」と記されています。これは、朝鮮半島にあった中国の郡県である帯方郡から見て、日本列島の人々が海を隔てた東南方向に住んでいることを示した記述を意味します。つまり、中国の魏王朝はすでに弥生時代後半の段階で、日本列島の倭人の存在を把握していたことになります。

「魏志倭人伝」にみる倭人の存在
(石原道博訳 1951)



「魏志倭人伝」の倭人の習俗(赤い顔料を身体に塗る)
(石原道博訳 1951)



この史料の中で特に注目したいのは、倭人の「習俗」を記した部分です。
そこには「朱丹を以て其の身体に塗る。中国の粉を用いる如きなり」とあります。これは、倭人が朱(水銀朱:HgS)や丹(ベンガラ:Fe₂O₃)といった赤色顔料を身体に塗る風習を持っていたことを示しています。中国では粉末を身体に塗る化粧の習慣があり、それに似ていると説明されています。つまり、赤色顔料は当時の倭人の生活と深く結びついていたことがわかります。

こうした実態を最もよく示す考古学資料は、弥生時代の墓です。
墓の内部や副葬品の周囲から大量の朱が検出される例が知られており、これは単なる装飾に限らず、葬送儀礼や権力の誇張と深く関わる重要な要素であったと考えられています。
近年、この問題に関連して注目を集めた遺跡が佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代を代表する大規模な環濠集落として知られていますが、その中でも北墳丘墓と呼ばれる区域は、王墓の可能性がある重要なエリアとして注目されています。

吉野ケ里遺跡北墳丘墓の墳丘       
(https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498より引用)



吉野ケ里遺跡北墳丘墓の遺構
(https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498より引用)



近年、この北墳丘墓の調査において、謎の記号が刻まれた箱式石棺墓が発見されました。しかし、この石棺の内部からは副葬品が出土しなかったため、当初は本当に王の墓であるのか疑問視されました。ところが、石棺内部は色鮮やかに彩られており、当時の権力者が特に重視した赤色顔料が使用されていることが確認されました。この発見は、吉野ヶ里遺跡の政治的性格を考える上で大きな話題となりました。

吉野ケ里遺跡北墳丘墓の謎のエリア(箱式石棺)
(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF29AIB0Z20C23A5000000/より引用)



吉野ケ里遺跡北墳丘墓の謎のエリア(箱式石棺墓の遺構)
(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF29AIB0Z20C23A5000000/より引用)



さらに、この北墳丘墓エリアでは、以前の調査でも重要な成果が得られています。この中に特に成人男性を主体に埋葬した大規模な弥生墳丘墓が確認されています。この墓の年代は弥生時代中期前葉とされ、当時すでに地域社会を統率する有力な王の存在を示すものと考えられます。
この王墓から出土した甕棺内面には、さまざまな副葬品とともに大量の朱が確認されています。

吉野ケ里遺跡北墳丘墓出土の甕棺墓(王の墓)
(https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/kitafunkyubo/より引用)



吉野ケ里遺跡北墳丘墓出土の甕棺墓内部の朱と共伴資料(王の墓)
(https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/kitafunkyubo/より引用)



朱は非常に希少価値の高い物質であり、これを大量に入手するためには強大な権力や広範な交易ネットワークが必要です。さらに、この遺構や周辺からは、無文土器、ガラス製管玉、絹製品、鋳造鉄器、有柄式銅剣などが出土しています。ガラス製管玉は外国産の装身具であり、鋳造鉄器は中国東北部に由来する輸入品と考えられています。

ここで注目されるのが、鋳造鉄器は福岡県に存在した奴国で多く出土している点です。また、有柄式銅剣の鋳型は、奴国の王墓が集中する春日丘陵の福岡県須玖タカウタ遺跡で発見されています。これらの事実から、吉野ヶ里の王と奴国の王との間には密接な政治的・交易的関係が存在していた可能性が高いと考えられます。

では、朱の産地からは何がわかるのでしょうか。近年、文化財科学の分野では、朱に含まれる硫黄の安定同位体比を分析することで、その産地を推定する研究が進められています。この方法によれば、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓で検出された朱は、福岡県の奴国地域(春日丘陵)に存在する墓の朱と近い値を示す可能性が指摘されています。

それでは、春日丘陵にある奴国の王墓について見てみましょう。現在、奴国の王墓として確実視されているのが、福岡県の弥生時代中期後葉の須玖岡本遺跡D地点です。この遺跡は京都帝国大学の梅原末治らによって調査され、大きな石の下から甕棺墓が発見されました。その内部には多数の副葬品が納められており、特に大型の草葉文鏡が出土したことで知られています。

須玖岡本遺跡D地点(王墓)(筆者撮影)





 

須玖岡本遺跡Ⅾ地点出土の草葉文鏡(中国の皇帝が諸侯に与えた銅鏡)   (https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1009433/1009437より引用)



 

須玖岡本遺跡Ⅾ地点出土の草葉文鏡(レプリカ)
(https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1009433/1009437より引用)



この鏡は中国産の銅鏡で、奴国の王が中国と直接交流を持ち、皇帝から特別な存在として認められていたことを示す重要な資料です。つまり、奴国の王は中国王朝との外交関係を背景に、北部九州の広い地域に影響力を持つ存在だったと考えられます。

須玖岡本遺跡D地点から出土した朱も注目されます。その色調は非常に純度の高い鮮やかな朱色で、粒子も均一であることから高度に精製された顔料であることがわかります。弥生時代にこのような高品質の朱を入手できる人物は極めて限られており、この墓が地域を統括する王の墓であることを裏付ける重要な証拠となっています。

さらに、この朱の産地は中国の陝西省である可能性が示されています。中国陝西省では古くから辰砂の採掘が行われており、中国の殷王朝の墓でも同地域の朱が使用されていたことが報告されています。つまり、奴国の王は中国産の朱を入手する交易ネットワークを持ち、それを北部九州さらには西日本一帯に広く配っていた可能性があります。
実際、須玖岡本遺跡の王墓以後、この陝西省産の朱は福岡平野を中心として西日本一帯に広く拡散していきます。この事実は、奴国の王が地域社会に対して非常に強い政治的・経済的影響力を持っていたことを示しているといえるでしょう。

このように、朱の産地分析と考古学資料を組み合わせることで、弥生時代の王たちの関係や政治的ネットワークを復元することが可能になります。朱という一つの物質を手がかりに、弥生社会の権力構造を読み解くことができる点は、文化財科学と考古学が連携する研究の大きな魅力といえるでしょう。

 

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