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歴史遺産コース

2026年05月28日

【歴史遺産コース】 寛永行幸四百年①―行幸とは?―

みなさん、ごきげんよう。歴史遺産コース業務担当非常勤講師の林大樹です。

寛永396日(グレゴリオ暦16261025日)、京都のみならず日本中を巻き込んだビッグイベントが始まりました。
大御所徳川秀忠・将軍徳川家光父子が、後水尾天皇を二条城に招き、5日間にわたり盛大なもてなしを行なった、世に言う「寛永行幸」です。

元離宮二条城 東大手門(2024年筆者撮影)



天皇の外出は「行幸」(ぎょうこう/ぎょうごう/みゆき)と呼ばれますが、正式な行幸には鳳輦(ほうれん)と呼ばれる天皇専用乗物や、随行者の装束、警備の者たちなどを手配する必要があります。
京都を戦場とした応仁の乱(14671477年)以降、天皇は禁裏御所(現在の京都御所)に引き籠もるようになりました。危険だし、お金もないからです。

鳳輦(東京国立博物館所蔵、2025年筆者撮影)



織田信長は天正5年(1577)と天正10年(1582)に本拠地の安土城(近江八幡市)へ正親町天皇を招く計画を立てていましたが(『言継卿記紙背文書』『晴豊公記』)、諸事情によって実現しないまま本能寺の変を迎えてしまいます。
関白となった豊臣秀吉は天下統一直前の天正16年(1588414日から18日までの5日間、後陽成天皇を京都の本拠地である聚楽第(京都市上京区)に招いて自らの権威をアピールしました。
天下統一後に聚楽第と関白職を譲られた養子の豊臣秀次も、天正20年(文禄元年)正月26日から28日までの3日間、やはり後陽成天皇を聚楽第に招いています。
秀次の切腹後に聚楽第は跡形もなく取り壊されましたが、京都の人々にとって「行幸」は秀吉や豊臣家を連想させるものとして記憶に残り続けました。
豊臣家を滅ぼした徳川家にとって、好ましいことではありません。

父家康の意向に基づき元和6年(1620)五女和子(まさこ、のちの東福門院)を後水尾天皇へ嫁入り(入内)させた秀忠は、同9年(1623)に家光へ将軍職を譲り〝隠居〟します。
大御所(前将軍)として実権を握りつつ、家光への権力移行を見据え、徳川家の政権を盤石なものとするために企図されたのが寛永行幸でした。

禁裏御所から二条城へ、わずか2,600メートルの距離を、総勢9,000人の大行列が練り歩く様子は、人々に強烈なインパクトを与えました。
泉屋博古館(京都市左京区)所蔵『二条城行幸図屏風』(京都市指定文化財)は銅山開発で財をなした大坂の豪商 住友家の旧蔵ですが、生き生きとした筆致で行列や沿道の人々を描いており、注目されています(泉屋博古館2014)。

幕府の宗教政策を担った僧侶の以心崇伝(いしん・すうでん)は幕府の命を受けて、この盛儀を『寛永行幸記』という記録にまとめています(『本光国師日記』)。
崇伝は序文のなかで、家康以来の徳川家の発展を語りつつ、後水尾を擁立し、御所を修復し、和子入内の結果、「外順内睦」=国内外が平和になった記念として行幸が企画されたことを述べています(紅葉山文庫旧蔵・国立公文書館所蔵『寛永行幸記』請求番号:145-1018)。
徳川家の偉大さを誇るプロパガンダ(政治宣伝)として木版印刷され、多数現存しています(間島2001)。

一方、同じくこの行幸を扱った絵入古活字版『寛永行幸記』という記録も存在します。こちらは行列の様子を絵入りで紹介しており、木製活字を組んだものとして出版史上注目されているものです(間島2001)。
文章は当代きっての文化人として名高い公家の烏丸光広(からすまる・みつひろ)の作とされていますが、やはり、秀忠・家光のおかげで「国家あんせん(安全)、四かい(海)おた(穏)やかに、まつりこと(政)たゝ(正)しきにより」行幸がおこなわれることになったとしています(国立国会図書館所蔵『寛永行幸図』上巻、古活字版第一種本、請求記号:WB35-8)。

幕府と朝廷、武家と公家、と聞くと、ドラマなどの影響で、常に対立していたように想像してしまいますが、この時期の両者は稀に見るほどの融和ムードに包まれていました。
当時20歳の和子は2人の娘を産んでおり、行幸に同行した際も3人目を妊娠していました(同年1113日に高仁親王を産んでいます)。
二つの『寛永行幸記』には、行幸で使用された物品や贈答品の数々も記録されています。父(48歳)と兄(23歳)は婿殿(31歳)のために莫大な費用を投じたのです。その一部は現存し、行幸の盛大さを今に伝えています。なかには当時の贈答品ではないものも混じっていますが……。

将軍家光が寛永行幸の際に八条若宮(智忠親王)へ贈ったとされる梨地葵紋蒔絵糸巻太刀
(重要文化財 太刀 古備前吉包)(東京国立博物館所蔵、2022年筆者撮影)



ところが、あまりにも大規模化した「行幸」はそう何度もできるものではありません。朝幕のかけはしとなるはずであった高仁親王は数え3歳(満1歳半)で亡くなってしまいます。次なる皇子の誕生を待ちたい幕府に対し、病気を患っていた後水尾天皇は不満を募らせ、寛永6年(1629118日、突然譲位の儀を決行してしまいます。譲った相手は和子との間に生まれた明正天皇でしたが、当時わずか7歳。事実上の職務放棄でした(熊倉2010)。
奈良時代の称徳天皇以来900年ぶりの女性天皇です。幕府も公家たちも、先例がわかりません。安全性の面からも、表立った「行幸」は避けられるようになっていきます。幕末まで、天皇は火事か譲位のとき以外、禁裏御所を出ることはなくなりました。

その後の寛永時代は、大飢饉や島原の乱、鎖国令の発令など、国内外に問題を抱えることになります。〝共通の敵〟を得たことで、朝幕・幕藩の結びつきはむしろ強固になっていくのですが、お祭り気分は吹き飛んでしまいました。「寛永行幸」は人々の記憶のなかで遠い存在となっていきます。

今年2026年は、寛永行幸から400年にあたります。
京都では昨年から「寛永行幸四百年祭」(主催:寛永行幸四百年祭実行委員会)が始まっています。
果たして400年前の記憶を塗り替えることはできるのでしょうか。

 

参考文献
間島由美子「『寛永行幸記』絵巻について―4種類の古活字版とその覆刻整版と写本」『参考書誌研究』第55 2001
熊倉功夫『後水尾天皇』中公文庫く18-2 中央公論新社 2010年(初出:1982年)
泉屋博古館 編『二条城行幸図屏風の世界天皇と将軍 華麗なるパレード』サビア 2014
詫間直樹 編『新皇居行幸年表』八木書店出版部 2022

参考サイト
寛永行幸四百年祭――よみがえる歴史絵巻 https://kaneigyoko400.jp/
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/

※引用した二つの『寛永行幸記』は上記のサイトで閲覧可能ですので、検索して見つけてみてください。

 

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