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2026年06月10日
【文芸コース】学生の小説を読んでいる中で起きた「七不思議」
文芸コースの麻宮ゆり子です。今回は、学生の小説を添削しているうちに気づいた、一般的な理屈では説明できない摩訶不思議な出来事について、「七不思議」としてまとめてみたいと思います。
といっても別に、恐ろしい怪談話をするわけではありません。
十年以上添削をしているうちに、教員である私と、自らの小説を書き上げて提出した学生とが、「なぜ?」と顔を見合わせ、首をかしげてしまうような、うまく言葉で表現できない数々の出来事がありました。
目次
1.テーマは結局、すべて「あとづけ」?
「文芸コース」に入った学生は、さまざまな課題にそって文章を書き上げることになります。私が担当する科目では小説を書いてもらうことになりますが、その際、「どんなテーマで書きたいか」「この小説に込めたいものは何か」という点について、前もってあれこれ細かく考える方がいらっしゃいます。しかし、先に頭の中であらゆる理屈を組み立ててしまう方ほど、意外と作品自体はおとなしくなってしまうように感じています。
登場人物や、どこを舞台にしているといった設定自体は、細かく決めてもらっても構いません。けれど「テーマ」とか「世界観」といった作品全体を覆うものについては、あまり深く考えず、ひとまず適当な文章から書き始め、すべて書き上げたあとで、「あ、私は、こういうことを表現したかったのか」と初めて気づく。それくらいのモチベーションでいた方が、最終的にはスケールが大きく、実り豊かな作品に仕上がる方が多かったように記憶しています。
「文芸コース」に入学する方は、「初めて小説を書く」という人がほとんどです。そのため、「自分が本当は何を書きたいのか」に、まだ気づいていないことが少なくありません。
だからこそ、あれこれ考えずに、本文を書きながら「自分の深い部分に触れる」ことで、テーマらしきものを無意識に探っていく。そうして作品が完成したあとで、「この作品のテーマはこれではないか?」という解釈が、本文からいくらでも見つかる……という仕組みになっているのではないか、と私は考えるようになりました。
2.テーマを細かく決めると、逆に書けなくなる
「1」に書いたことを逆に言うと、上の小タイトルのようになるのではないでしょうか。
前もってがっちり決めすぎない。難しく考えすぎない。でも、あらゆるもの(テーマも含め、人、行為など)をバカにしないで書いてく──というのが初めて小説を書く方には大切な心がけだと私は思っています。
難しい言葉や思想より、ふわっと湧き出てくる自然な感情を描くほうが、読んでいる人にはずっと伝わります。堅苦しい表現や小難しいルール、常識から自由であればあるほど、その人らしい作品になるような気がしています。
書く前から「小説の枠」を自分で決めて、作りすぎると、書く際に「その枠から自由に逸脱できなくなってしまう」というのが理由になるかと思います。
3.ユーモアは、その人自身の“ギフト”である
ギフト(gift)というのは天賦の才とか、天から与えられた資質という意味です。
ユーモアに富んだ作品を書く方が、まれにいます。これまでに私が作品の中に「ユーモアの才能」をピカッと感じた学生は、何人かいらっしゃいました。
「ユーモアを文章で表現できる才能」を秘めているということは、普段のその方の外見や、話している様子からはまったくわかりません。けれどその方が自由に(ここが重要)書き上げた作品を私が読んでみると、「おおっ、す、すごいっ!」と思わず立ち上がって声をあげたくなるほどキラキラした「笑いの資質」が感じられる──そんな作品を、私は過去に何度か読んできました。
ユーモアのポイントは、対象との距離感にあります。こういった資質をもっている方は、「一般常識から少しズレた感覚の作品」を書くことが多いです。不倫をしている人や、友だちがまったくいない主人公など……。一見、暗くなりそうな人物設定の中で、「ピュッ」と細い穴に糸を通してしまうような、しなやかなユーモアを、自在に使いこなします。一見「暗い」ととらえられがちな人物が、「こんなにもユーモアに満ちた視点で世の中を見ているのか!」と、驚くような内面世界を繰り広げ、読ませてくれるのです。
けれどやはり書いて、発表し、こちらが読んでみないとわからないのですよね。繰り返しますが、こういった作品を書く方は、直接顔を合わせ、話をする限りでは「真面目そうな、普通の人だな」という印象の方がほとんどです。
みなさん、すごい才能を秘めながら、この世の中を「普通の人」として生きているのですね。自らの経験を、「ユーモアという距離」を持って描けることは、何者にも代えがたい、すばらしい資質です。
4.「似通った設定」の作品を同時に提出する人が何組かいる
私が担当している科目に、40人分の作品が提出されたとします。するとその中で毎回、何組か「似通った設定」の作品を提出される方がいらっしゃいます。
似通った、といっても、別に「今、流行っている設定」というわけではなく、「微妙な点が、なんだか似ている」というのがポイントです。
たとえば、「女子高校生のふたりが旅に出る。その行先が、海」というもの。他には、「近未来設定のディストピア小説で、人とAI(ロボット)が正義と悪のせめぎ合いの哲学を語り合う。最後はロボット側が死去(?)する」といった作品も、何度か読んだおぼえがあります。他にもいろいろ共通する例はあるのですが、これ以上詳細を書くと、個人が特定されてしまうので、ここに書けないのが残念です。
ただ、「よく似た感じの女子高校生ふたり」「日帰り旅行」「海」といった細かな設定だけが、なぜかはっきりと共通しているのです。ちなみに通信の大学なので、学生同士はほとんど面識がありません。
私はこの現象がずっと不思議で仕方がありませんでした。
ただし、時代や住んでいる場所が異なっていても、人間同士は「集合無意識」という深い場所で常に交流していると言われています(心理学者・ユングの説)。もしかしたら本当にそうかもしれない……と、この大学で教えるようになってから、たまに感じるようになりました。
5.自分の長所に気づいていない人が多い
小説では、人物を描くことが大切です。
だからといって、もちろん「主人公や他の登場人物=作者」というわけではありません。しかし、登場人物のものの見方や、興味や関心、物事のとらえ方、死生観などには、おそらくどこかで作者の考え方や思いが反映されているだろう、と私はとらえています。
作品を読みながら、「この作者はこんなふうにものを見ているのかな」とか、「こんな感じで人生をとらえているのだろうか」「仕事について、こんな考え方を持っているんだな」といったように作者の価値観が、ふわっと見えてきたり、感じられたりすることがあります。
そしてその気づきを、作品の展開について話す面談の場などで伝えると、「えっ」と作者に驚いた反応をされることが多いのです。
みなさん、気づいていないのですよね、ご自身の「もののとらえ方」や、「すごい部分」について。これはすべてその方の「長所」と言えるものだと思っています。
だから私は、まだ作者が気づいていないであろう「光っているところ」について、どんどん言語化し、伝えるようにしています。
すると、私という第三者に見つけてもらったその方の「光っているところ」は、まるで小躍りするように、ますます輝きを増し、作品の中できらきらとした様子を呈してきます。
「昭和や平成生まれ」の学生の作品を読む限り、みなさん、あまり親などに褒めてもらっていないのだろう、という印象を受けています。だから自分の長所にも、気づくことができていない。
これは私自身も同じです。子どもの頃の私は、親から言葉でも態度でも、言語外のメッセージ(暗黙の了解)としても、「あれはダメ、これもダメ」「おまえはダメ」という指摘ばかり受けて育っていますから……わかるなぁ。みんな、似たような環境で育ってきているのかもしれませんね。
ですから学生の作品に、小さくとも確かな輝きを見つけたときは、「今からでも遅くない。あなたのここ、めっちゃ光ってるよ!」という意味を込めて、私はどんどん指摘し、その輝きが、もっともっと表へ出てくるようにしてもらっています。
6.家族小説なのに、なぜか父親だけが出てこない
これは少し怖い話になります。
家族に関する小説を提出する学生をたくさん見てきました。その方が「自分の家族」について書いているのか、「まったくのフィクション」を書いているのか、もしくは「その中間くらい」を描いているのかは、私にはわかりません。ただ、こういった家族を舞台にした物語の中で、なぜか「父親だけが出てこない」という現象が数多く起きています。
昭和生まれ、平成生まれ、どちらの学生にも多いです。いずれ登場する「令和生まれ」も同じではないかと私は予想しています。
主人公(私)とお母さん、きょうだい、ペットの犬や猫などが登場する。そして、いろいろな事件が起きる。最後は大団円……って、んっ?
「この物語に出てくる家族には、お父さんはいないんですか? (書かれてないけど)亡くなっているとか?」
「いえ、います」
「でも最初から最後まで、お父さんの存在も、名前さえも、一切出てきませんよね。何か理由でもあるんですか?」
「別に、理由はないですけど……」(自覚さえない?)
こういったやり取りを学生と何度かしたのをおぼえています。
家族小説なのに、なぜ父親が作品の中からまるごと消えてしまっているのか──。
つまり、「お父さん」という存在が、(子どもなどの)家族にとって、とても薄く感じられているからではないでしょうか。
普段、仕事へ行っていて、ほとんど家にいない。子どものことは全部お母さん(妻)にまかせきりだった。家に帰ってきても、家族と会話せず、自分の書斎などにこもってしまう。家ではお母さん(妻)の存在感が強すぎて、お父さんは何も言わない(言えない)でいるから、子どもの中では「透明人間と化している」……と、理由はいろいろ考えられます。
こういった、作者が無自覚なまま描かれる「父親不在の家族小説」を読んでいると、社会や、日本の家制度の闇が、じわじわと感じられます。生物学上の父親はいるけれど、「家の中に」お父さんはいない。すると、父親という光がない家の中で子育てを担当する母親は、ときには自己犠牲をしながら支配的に子と接するようになり、最終的に母と子は、共依存的な関係に陥っていくこともある……。
そんな家族が実は、日本には多いのではないでしょうか。そういえば、共感力の低い母親に苦しめられる子ども側の小説も、いくつか読んだように記憶しています。
7.自分の小説を一本書き上げた方は、別人のように変わる
「一度も小説を書いたことがない」という方が、「今までほとんど誰にも話したことがないようなエピソード」を盛り込んで、その人にしか書けない小説を、試行錯誤の末に書き上げる。
それを教員が読んで意見を伝え、学生は自分なりに修正を繰り返す。
そうして最後の提出を乗り越えた先で起きるのが、大きな作品の変化──そして、作者自身に不思議な変貌がおとずれる、ということです。私は添削の場で、そういった学生自身の変化を、何度も目の当たりにしてきました。
まず、目の光が違う。
さらに背筋がすっと伸び、自分の物語(作品)について、以前よりずっと堂々と語れるようになっている。言葉の一つひとつに重みが増して、思わず私のほうが「先生、この作品、すごくよくなりましたね」と言ってしまうほどの衝撃を受ける……ということがたくさんありました。
しかし当の本人(学生)は、けろっとして、「え、変わった? そうですか」と言って微笑んだり、満足そうに、ウフフと笑っている。
ま、まぶしいっ! まぶしすぎて、私には直視できない!
人って、いくつになっても成長するのですね。心の成長には年齢も、性別も、一切関係ありません。内側が変われば、もちろん顔つきや、話し方など外側にも影響は出てきます。
今まで、さまざまな苦しい感情を抑圧してきたような「いい人」ほど、「こういうのが書きたいんです。でも書けない……いや、書くんだ!」という山を乗り越えた先に、怒涛の変化が待っていたように感じています。
みなさん、まだまだ本当の自分に出会っていませんね。ぜひ、文芸作品を書き上げることで、今の自分を切り開き、たとえば……「何者かに擬態している自分」など、さまざまな山を乗り越えてみませんか。
これから先、どんな作品と出会い、さらにどんな「不思議」が生まれるのか、私は今から楽しみで仕方がありません。
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