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歴史遺産コース

2026年10月01日

【歴史遺産コース】 寛永行幸四百年③―プレゼントされる太刀―

みなさん、ごきげんよう。歴史遺産コース業務担当非常勤講師の林大樹です。

さて、400年前の寛永行幸(ブログ① ブログ② 参照)では「名作」の「御太刀」が親王・摂家・公卿らに贈られました。

「行幸の時公家衆へ被進御太刀覚」(正宗文庫所蔵古活字版第1種『寛永行幸記』第2軸。国書データベースより)



伝 烏丸光広版『寛永行幸記』絵巻には「行幸の時公家衆へ被進御太刀覚」という項目があり、関白近衛信尋へ贈られた《太刀 銘 備前国住雲次》(重要美術品、陽明文庫所蔵)をはじめとする将軍家光からの進物刀剣リストになっています。ただし末尾に「以上、合(あわせて)参拾二(32)ふり」とありますが、28名28口しか書かれていません。将軍家光が寛永行幸の際に八条若宮(智忠親王)へ贈ったとされる《梨地葵紋蒔絵糸巻太刀(重要文化財 太刀 古備前吉包)》(ブログ①参照)も載っていません。このリストも、単なる数え間違いなのか、暫定的な予定表であったのか、史料批判を加える必要があるのです。

実は、後水尾天皇にも太刀が贈られているのですが、そこにも謎があります。
『寛永行幸記』絵巻によると、将軍徳川家光からの「御進物」は「一文字」と「行平」の「御太刀」2腰で、ともに「きんらん(金襴)のふくろ(袋)に入」れ、「たかまきゑ(高蒔絵)、なし(梨子)地」の「金銀はこ(箱)」に納められてあった、とあります。
大御所徳川秀忠からの「御進物」は「御太刀、菊 金つくり一腰」であった、とあります。
以心崇伝版『寛永行幸記』(紅葉山文庫旧蔵・国立公文書館所蔵、請求番号:145-1018)によると、行幸2日目(9月7日)の朝に将軍徳川家光から「御太刀〈行平〉」が、翌3日目(9月8日)の朝に大御所徳川秀忠から「御太刀〈菊金作〉」がそれぞれ贈られています。自らの手で進上したとあります。
近衛信尋は、7日に家光から「御太刀一文字」、8日に秀忠から「御太刀〈菊〉」が進上されたと日記に記しています(『本源自性院記』。自分が雲次をもらったことも記録しています)。
「行平(ゆきひら)」は鎌倉時代の豊後国(大分県)の刀工とされ、その作刀は古くから珍重されてきました。現在の「昼御座御剣(ひのおましのごけん)」(天皇の御座所に据え置かれた太刀)が行平の作刀であることから、明治・大正期の刀剣愛好家 高瀬真卿(羽皐)はこれこそこのときに進上された行平の太刀なのではないかと推測しています(高瀬1910)。それを裏付ける史料は見つけられていませんが、可能性としては十分に考慮すべき仮説だと思います。
一方、秀忠の進上した「菊金作」ですが、刀剣で「菊」といえば一般的に、菊の紋章が刻まれた一文字(いちもんじ)派の太刀のことを指します(粟田口派の場合もあります)。一文字派は鎌倉時代に備前国(岡山県)で栄えた刀工一派で、持ち手の部分の茎(なかご)に「一」という文字を刻むことから一文字派と呼ばれます。菊と刀剣を好んだ後鳥羽天皇(1180~1239)から菊紋の使用を許されたといわれています。「金作(こがねづくり)」は金銅で装飾されたものを指します。こちらは延宝7年(1679)までは同一と思われる太刀(「菊一文字御太刀」)の存在が確認できますが(宮内庁書陵部所蔵『禁裏詰所日記部類目録』)、その後の行方はわかりません。
以上の記録から、家光は一文字派と行平の太刀2口を、秀忠は菊金作の太刀1口を進上したと考えて良いでしょう。

ところが、東京国立博物館(東博)が所蔵する 太刀 銘 雲生(機関管理番号:F-167)には、以下のような解説が付されています(小笠原1998)。
 (前略)雲生の太刀に関する宮内庁の記録には「寛永三年九月六日 後水尾天皇二條城行幸ノ節将軍徳川家光献上」「御代々第一ノ皇子御降誕ノ節渡セラル」とある。(後略)

雲生(うんしょう)は鎌倉時代末期、備前国津高郡宇甘郷(岡山市)で作刀した鵜飼(うかい)派の刀工ですが、一文字派とは作風の異なる別系統とされていますので、家光が進上した「一文字」の太刀と混同するとは考えられません。

《太刀 銘 雲生》(東京国立博物館所蔵:F-167)の葵桐紋糸巻太刀拵(2025年筆者撮影)



この雲生の太刀は、戦後に宮内省から東博へ移管されました(東博1965)。
明治天皇の蔵刀目録を1919(大正8)年に書写した目録(宮内公文書館所蔵『御劍目録甲』識別番号:34668)には
甲第八号
一、備前國雲生御劍
《寛永年中、二條 行幸、將軍家光献上。
御代々第一之皇子 御降誕之節、被渡》
(後略)

とあるだけで、「寛永年中」という曖昧な表現になっています。
「明治初年加古宮内少丞の筆記せしもの」という「帝室御傳來の寶刀目録」(高瀬1927)では、「雲生御劍」には「一ノ皇子御料御傳來」とだけ注記され、行幸に関しては書かれていません。
※「加古」とありますが、明治3年(1870)正月から7月と翌4年7月から宮内権大丞を、翌8月から同6年5月まで宮内大丞をつとめ、古社寺の宝物調査に従事した世古延世(せこ・のぶつぐ、1824~1876、東京大学史料編纂所所蔵『勤王殉国事蹟』参照)のことだと考えられます。
どうやら、〝行幸のときのプレゼント〟という由緒は、近代になって発生したようです。

江戸時代、天皇の所有刀剣は、禁裏御所の御文庫で御剣(御太刀)奉行たちが御剣目録によって管理していました(林2021)。
天保13年(1842)の天皇所蔵刀剣を書き上げた『御剣目録』(宮内庁侍従職保管、京都御所東山御文庫勅封166函。東京大学史料編纂所図書室で公開中)や安政6年(1859)の『表御文庫御目録』(東山御文庫勅封179函)に載っている「雲生」は1口だけですから、これがF-167のはずです。ところが目録には「雲生」とだけ書かれ、伝来情報は何も書かれていません。
では、〝第一之皇子〟に関する由緒も誤りなのでしょうか。
家光が贈ったのでなければ、F-167はどこからやってきたのでしょうか。

④に続きます。

※泉屋博古館(京都市左京区)で開催中の「寛永行幸四百年記念 特別展 寛永行幸と花の都の文化びと」(2026年9月5日(土)~10月18日(日))で雲生F-167の拵えが展示中です。
https://sen-oku.or.jp/program/202609_splendidparade400/

※京都文化博物館(京都市中京区)で開催中の「寛永行幸四百年祭開催記念 特別展 寛永―太平がはぐくむ美―」(2026年9月19日(土)〜11月15日(日))で陽明文庫所蔵雲次が展示中です。
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/20260919-1115/

 

参考文献
高瀬真卿「御物」『刀剣談』日報社 1910.6
高瀬羽皐 原著、高瀬魁介 増訂編纂『刀剣談』増訂 嵩山房 1927.2
佐藤貫一・沼田鎌次 編『御物東博 銘刀押形』日本美術刀剣保存協会 1958.8
『東京国立博物館年報』昭和39年度 東京国立博物館 1965.8
近衛通隆・名和修・橋本政宣 校訂『史料纂集 本源自性院記』古記録編第50 続群書類従完成会 1976.7
小笠原信夫 監修、毎日新聞社 編『御剣』毎日新聞社 1998.4
林大樹「朝幕関係史上における刀剣贈答―尊号一件二刀進献をめぐって―」『人文』第20号 2022.3 http://hdl.handle.net/10959/00005282

参考サイト
国立文化財機構所蔵品統合検索システム ColBase > 太刀 たち
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-167

※東博所蔵のF-168《太刀 銘 雲生》(重要文化財)は楠木正成の末裔、米沢藩士芋川家の旧蔵で、1884(明治17)年4月30日に岩手県令石井省一郎を通して明治天皇へ献上されたもので(『御劍目録甲』)、別物です。こちらには戦闘で付いたらしい刃こぼれ(誉疵(ほまれきず))もあり(下記写真。2025年筆者撮影)、明治天皇秘蔵の太刀であったといわれています(土橋真吉『永生の神人 大楠公』斯文館出版部 1929.1)。



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