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2020年03月20日

【歴史遺産コース】通信教育部の在学生、卒業生みんなが参加できる「収穫祭」—鹿児島尚古集成館で歴史と近代化遺産を学ぶ

「収穫祭」桜島を借景にした仙巌園にて(清水六兵衛先生撮影)



「収穫祭」とは、通信教育部の教員による学生委員会が運営する「学びと集い」の会です。昨年度まで「秋の収穫祭」として秋季を中心に、年に3回程度各地で行なってきたものを、今年度からは、年間を通じて8回、全国各地で開催することとなりました。また通信教育部のあらゆる学科、コースの在学生、卒業生が誰でも参加することができる、開かれた催しとなっています。

地域における芸術や歴史を現地で体験的に学ぶための多様な内容が用意された今年度は、どの企画もたいへん人気を博すことができました。

今年度最後の開催となった鹿児島の尚古集成館での「収穫祭」は、222日(土)に行われました。学生委員として、その企画に関わり、鹿児島の世界文化遺産を訪ねた今回の「収穫祭」をご報告したいと思います。

当日の様子は、ご一緒に引率してくださった陶芸コースの清水六兵衞先生と、参加者のひとり、通信教育部歴史遺産コースの卒業生で、現在通学部の大学院博士課程に在籍されている岸本洋一氏の撮影による写真とともにお伝えします。

 

新型コロナウイルス感染のニュースが流れ始めている頃でもあったため、参加予定者の急な欠席も多いかもしれないと案じていたのですが、それほどの欠席者が出なかったのは、今回の企画への期待が大きかったからかと思われます。

それは、尚古集成館館長の松尾千歳(ちとし)氏に特別講演をいただくことと、館長自らのご案内で、集成館館内と、隣接する名勝 仙巌園(庭園)、御殿(島津家別邸)などを見学することになっていたからです。

尚古集成館 入り口(岸本洋一氏撮影)



尚古集成館 本館(岸本洋一氏撮影)



さて、「集成館」は、島津家28代の斉彬(なりあきら)が作った洋式工場群でした。斉彬亡き後も、殖産興業を目指して、近代化の礎として引き継がれた工場群でしたが、その一部の「旧集成館機械工場」が残り、その建物が現在「尚古集成館」として島津家の歴史・文化を紹介する博物館となっています。これは、慶応元年(1865)に竣工した日本最古の石造り洋式機械工場であり、重厚な造りを今に伝えています。

そして「旧集成館」は、平成27年にユネスコ世界文化遺産として登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとなっています。

今回、この館内にある講座室をお借りして、松尾館長の特別講演を拝聴することができました。

尚古集成館 本館入口(岸本洋一氏撮影)



尚古集成館 講座室での講演 (事務局撮影)



松尾館長も新型コロナ対策でマスクをしての講演となりました(清水六兵衞先生撮影)



松尾館長のご講演は、たいへん刺激的な内容で、これまで全く知らなかった薩摩藩の先進性を知ることができました。

その立地条件から、海の玄関として、琉球、中国、東南アジア、さらにはヨーロッパからの文物、情報が、鎖国以前にはいち早く届いていたこと、中国人の優れた人材を多く抱えていたことなどを改めて知りました。こうしたことから江戸時代の鎖国状態のなかでも、天文、測量、土木技術などの知識が、京都や江戸より進んでいたことなど、驚くべき薩摩藩の実力も知ったのでした。そして幕末を迎え、黒船来航よりずっと早くから欧米列強の脅威を意識せざるをえない、世界の情勢をいち早く知る位置に薩摩藩があったことがよく理解できました。

そして、欧米の脅威に備える軍事力の増強、先進的な工業技術の開発に大きく踏み出したのが、藩主、島津斉彬(なりあきら)であったことは著名です。しかし鎖国中のその近代化は、オランダの書物の情報だけを頼りにした試行錯誤の積み上げによるものだったのでした。

薩摩藩の近代化に大きく舵を切った島津斉彬の事績の紹介(事務局撮影)



松尾館長は、ユネスコ世界遺産登録前にその審査のために来訪されたイコモス(国際記念物遺跡会議)の専門委員の方から、幕末にできた機械類などを見て、欧米の技術者の指導を受けたに違いないと言われたと、当時のやり取りを紹介されました。書物だけを頼りにここまでのものを作り上げたことを、当初はにわかに信じてもらえなかったのだと、おっしゃっていました。

藩主の命に応えるため、日本の従来からの技術をどう使えば、洋式の機械類に近いものができるのか、あらゆる工夫が凝らされたことを、当時の遺品は、物語っているのでした。

また斉彬は、軍事目的の科学技術導入だけでなく、それらを薩摩切子、紡績などにも生かすことで、民衆の生活向上に寄与する産業を起こすことにも、力を注いだのでした。

明治期日本の輸出産業を支えた紡績の技術も、鹿児島での紡績事業に関わった人々が、全国各地に設立された官立紡績所で、その知識や経験をもって指導に当たったということを、私は今回初めて知りました。

館内を解説しながら案内くださる松尾館長(清水六兵衞先生撮影)



隣接する公開施設の入り口(反射炉遺構・仙巌園(庭園)・御殿など)(岸本洋一氏撮影)



尚古集成館に隣接する仙巌園にも、近代遺産の遺構が残されています。高温で大量の銑鉄を溶解することができる反射炉の基礎部分です。今は上部の炉や煙突などは残っておりませんが、もとは高さ20メートルにもなる建造物であったと言われます。

同じく世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産となっている萩や韮山の反射炉に、往時の姿を偲ぶことができます。

こうした溶鉱炉は、西洋式の大砲製造のために製作されたのでした。

反射炉の遺構(清水六兵衞先生撮影)



反射炉の遺構の前で、イヤホンを付けて館長の説明を聞く参加者(清水六兵衞先生撮影)



名勝庭園 仙巌園へ(岸本洋一氏の撮影)



反射炉の一角を過ぎ仙巌園へ入りますと、そこには桜島を借景にした庭園が広がります。午前中は雨がパラついて、雲に隠れていた桜島でしたが、ちょうど美しく全容を現していました。芝を貼ったスケールの大きい庭には巨大な灯籠、南国の植物なども配されて、ここでしか見ることのできない、じつに豪快な大名庭園となっています。

桜島を借景にした仙巌園の庭園(岸本洋一氏撮影)



仙巌園は、江戸時代初期、万治元年(1658)に島津家19代光久によって薩摩藩主島津家の別邸として造営されたものですが、その中に築かれている現在の御殿は、明治17年(1884)に改築されたものとされます。

庭園側にある藩主の間は、一段高くなっており、やはり全てが贅沢な造りとなっていました。

さて、薩摩藩では、科学技術を駆使した工芸品にも力を注ぎましたが、贅沢な金彩を華やかに用いた薩摩焼なども、明治期の殖産興業への道を開きました。ロシア皇帝も薩摩焼のコレクションを持つほど、輸出品として脚光を浴びる産業となっていったのです。

御殿内には、明治29年(1896)に、ロシア皇帝、ニコライ2世の戴冠式に際して、島津家から贈られたとされる薩摩焼の大花瓶の復元品も展示されていましたが、実物は今もエミルタージ博物館に所蔵されています。

御殿(島津家別邸)の玄関(岸本洋一氏撮影)



御殿の中庭(清水六兵衞先生撮影)



外国の要人の接待にも使われた謁見の間 薩摩切子(きりこ)のグラスも(清水六兵衞先生撮影)



御殿から庭園を望む(岸本洋一氏撮影)



松尾館長の解説を聞きながら御殿内を回る参加者(清水六兵衞先生撮影)



薩摩焼で作られた桜島大根の釘隠(くぎかくし)(清水六兵衞先生撮影)



御殿内の廊下(岸本洋一氏撮影)



庭園側からの御殿(清水六兵衞先生撮影)



御殿を出て、庭園内をまわると、木陰にひっそりと立つ「高升」というものに出会いました。

これも、サイホンの原理で水をあげ、庭園に水を流すための装置だと言われます。西洋の科学技術をもって日本の文化に応用する斬新な意欲というものを、随所に感じました。

庭園に水を流すために作られた高升(岸本洋一氏撮影)



曲水の宴に使われる庭園 水を流す技術も科学が応用された(清水六兵衞先生撮影)



こうして、松尾館長のナビゲートによって、私も含め参加者の皆さんも改めて、鹿児島で目から鱗の体験をすることができたのだと思います。新たな知に触れる喜びをおのおのが感じておられたのでしょう。みなさんの目が一様にキラキラと輝いているのを感じました。

日本列島南端にある外様大名の国、薩摩ではなく、自力で殖産興業を図るという、幕末維新期にずば抜けて先進的な考え方を実践していた人々の国であったことが、改めて了解されました。

まさに近代日本を形づくる基(もとい)となった文化遺産の地、鹿児島を、強く印象付けられた1日となりました。

 歴史遺産コース 栗本徳子


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