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芸術学コース

2020年10月28日

【芸術学コース】日常・お弁当・芸術

10月も半ばを過ぎ、めっきり秋めいてきました。いかがお過ごしでしょうか。芸術学コースの田島恵美子です。「新しい日常」が定着しつつあるこの頃、皆さんの毎日の生活にはどのような変化があったでしょうか。東日本大震災の時もそうでしたが、このコロナ禍においても、改めて「日常」がクローズアップされ毎日の生活をみつめなおす機会ともなっています。であれば、芸術の秋でもありますし、ここで一度、「芸術」という視点から、改めて身近なものや生活を見直してみてはいかがでしょうか。

毎朝のお弁当作りの参考書(筆者私物)



皆さんは、ご自身の日常生活の中で美や芸術を感じる事柄はありますか?日常的に何かしら芸術にかかわっている方であればすぐに思いつくかもしれませんし、全く思いつかない方も多いかもしれませんね。私は10年以上前に一度、レポート課題でこのテーマに取り組みました。その内容は、日常生活の中の「美」を発見しそれを描写し(画用紙等に絵を描きます)、それはどのような意味で「芸術」かを述べるというものでした。当時、仕事と勉強の両立で慌ただしい毎日を送っており(その状況は今も変わっていないのですが)、自分の毎日の生活の中で芸術として語れるものはあるのかと考えあぐねていたことを思い出します。そして思い至ったのが、毎朝作っていたお弁当でした。それは、たまに作る豪華なお弁当ではなく、職場で毎日の業務の合間に食べる簡単な食事としての「毎日作って食べるお弁当」であり、つくる→食べるという日常的な行為の繰り返しを含むものです。

ではまず、その「お弁当」はどう美しいのか。お弁当は食べることが第一義だとすると、美しい味つまり「美味しい」ことがお弁当のひとつの美の基準といえます。しかし、「美味しい」の基準は極めて個人的なものであり、年齢や地域、育った環境により千差万別です。よって一概に言うことはできませんが、その美=美味しさは「毎日続けて食べることができるか否か」ではかることができるものと考えました。個人的な例で恐縮ですが、私の場合、同じメニューが続いても特に気にならないのですが、全体の味のトーンバランス―味の濃淡や強弱、歯ごたえ等の取り合わせ-が単調なものは、一品一品がどんなに美味しくても毎日続けて食べることができないという問題がありました。お店で買ってきたお弁当は、1日目は美味しいと思いながら食べるのですが、3日目ともなると箸が進まなくなるのです(実はこれがお弁当作りを始めた直接のきっかけです)。つまり、メニューや豪華さではなく全体の味のバランス、私にとって、これが毎日食べるための必要条件といえます。これを満たすお弁当を作り毎日食べることで、その「美」は実感することができます。

では、このような「毎日のお弁当」はどのような意味で「芸術」なのか。私がそれを芸術と関連付けて考えたのは、日常的に行っていたお弁当作りもひとつの表現であり創作活動ではないかと気づいたからです。お弁当作りにおいては、冷めても美味しいか、特に夏や湿気の多い季節は防腐への配慮のほか、忙しい朝時間の作業で求められる効率性、そしてお財布にやさしいことつまり経済性を考慮する必要があります。彩りや見た目、味のほか、炭水化物・タンパク質・野菜の栄養バランスも重要です。このような制約がある中で、お弁当箱という限られた空間にいかに「美しい」世界を創り上げるか。個人的な嗜好の問題、健康管理、そして節約という現実的な理由から必要に迫られて始めたお弁当制作であり、最初は面倒だと思いながら作っていました。それが、毎日続けるうちにだんだんと楽しくなり、お弁当作りがいつしかお弁当創りになりました。私にとって、それはひとつの表現活動にもなっていたように思います。だとすれば、毎日のお弁当もひとつの「作品」です。

さらに、その「作品」は、食べるという行為によって毎日享受されます。日々のあわただしい仕事の合間に食べるこの「お弁当」は、制作者であり受容者でもある私に、ささやかな楽しみと確かな満足感を与えてくれました。空腹を満たし栄養を補給するという食事の実際的な機能からすると余分なものとも思われるもの、これが実感されるとき、「芸術」を感じることができるように思います。このような意味において、「毎日作って食べるお弁当」は「芸術」なのではないでしょうか。

《ある6日間のお弁当の記録》2009年、画用紙・色鉛筆・ペン、A4サイズ (筆者作)
※課題のひとつとしてある6日間のお弁当をスケッチしました。「連綿と続くお弁当生活のほんの6日間だけを取り出したものであり、その背後にある日常の連続性を示唆するもの」といただいた講評の中で述べられていました。この拙いイラストに「日常の連続性」が表されているとは、描いた本人は全く気づいておらず、改めて第三者の視点の重要性を実感しました。



と、当時このような内容でレポートをまとめました。しかし、ひとつ難しい問題に気づきます。いろいろ述べたところで所詮は自己満足にすぎないのではないか、ということです。だとすれば、それは芸術といってよいのか、単に独りよがりの産物にすぎないのか。

そもそも、芸術とは何なのでしょうか。この根源的な問いに戻る必要がありそうですが、一言でまとめることはできない難しい問題であり、正面から取り組むのは億劫に感じるかもしれません。そのような時は、美術館にある名作について考えるよりもまず、この「お弁当」のような、自分にとって身近な例から考えてみてはいかがでしょうか。

最後にもうひとつ、この考察で気づく事を述べたいと思います。ここで考えたような美や芸術の問題は、多分に受容側の価値判断の問題でもあるということです。お弁当の例では、弁当それ自体は「箱にご飯とおかずを詰めて毎日お昼に食べるもの」にすぎず、何も気づかなければそれはただお弁当としてあるだけです。享受する側が気づいて認めることによって初めて、美や芸術は立ち現われるのです。さらにその気づきや発見を自分以外の誰かに伝え賛同を得ることができたなら、見出された美や芸術といった価値は、より確固としたものになるでしょう。幸い、今回の「お弁当」は、添削いただいた先生に「芸術である」との賛同をいただくことができました。

今一度、改めてご自身の日常生活を思い浮かべてみてください。どんな美や芸術に気がつきますか?

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