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芸術学コース

2022年10月13日

【芸術学コース】ソウルの博物館で出合った文化財の話

 芸術学コース非常勤講師の大橋利光です。近代朝鮮の文化史(食文化史・美術史)を専門に学んでいます。今日は、日本のみなさんに知っていただきたい文化財の話を少ししてみたいと思います。

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ソウルの都心にある国立現代美術館の分館


ソウルの城壁と門


 少し前のことになりますが、研究上の用事があり、韓国・ソウルに行ってきました。4泊5日の旅程で、最初の3日間は残念ながら雨模様だったのですが、残り2日は、東京よりも一足早い秋晴れの空を楽しむことができました。
 その秋晴れの日、私は西大門(ソデムン)にある王宮のひとつ、慶熙宮(キョンヒグン)と、ソウル歴史博物館に向かいました。西大門という地名は耳慣れなくても、南大門(ナムデムン)・東大門(トンデムン)の名前は、ご存じの方も多いことと思います。朝鮮王朝時代のソウルは周囲をぐるっと城壁に囲まれた城郭都市で、東西南北には4つの大門と4つの小門が設けられていました。だから西大門、南大門、東大門、というわけです。

東大門とそれに連なる城壁址



 ちなみに少し脱線しますが、ソウルの4つの大門の名前は、基本的に儒教の徳目である五常(仁・義・礼・智・信)にちなんで付けられています。南大門は正式には「崇礼門(礼を崇[たっと]ぶの門)」といいます。東大門は「興仁之門(仁を興すの門)」、そして西大門は「敦義門(義を敦[あつ]くするの門)」です。また、東西南北の中央に当たる場所には、大きな鐘があって鍾閣(チョンガク)の別名でも知られる「普信閣(信を普[あまね]くするの閣)」が建てられています。いずれも、五常にちなんだ文字が2字目に入っていることがわかります。ただし、北大門は「粛清門(のち粛靖門)」と名付けられていて、ここだけなぜか「智」を用いていません(その理由は詳細にはわからないようです)。

慶熙宮(キョンヒグン)


 さて本筋に戻って、西大門(敦義門)は、現在では地名に名を残すばかりで、門の建物はありません。日本の植民地支配下にあった1915年、道路の拡幅と路面電車の複線化の妨げになるとして、取り壊されたからです。慶熙宮は、この門の跡地のすぐ近くにあります。
 慶熙宮もまた、西大門同様、植民地時代にほとんどの建物が取り壊されました。その部材の多くは、すぐ近くの景福宮(キョンボックン)で行われた博覧会(朝鮮物産共進会、1915年)の会場建設に用いられたと言われています。そして、宮殿がなくなった跡地には、旧制京城中学校が置かれました。甲子園で開かれた夏の中学野球大会にも朝鮮代表として出場した経験を持つこの学校は、しかし、事実上、日本人のエリート育成のための学校でした。日本の敗戦後、京城中を引き継ぐ形でソウル中学校(現在のソウル高等学校、1980年に移転)が建てられ、その跡地であることを示す石碑が、敷地の片隅に残っています。
 慶熙宮の敷地には、現在、学校の建物もすっかりなくなり、発掘調査を経て、いくつかの宮殿建築が復元されています。行ってみると、鮮やかな丹塗りが秋空に映えていました。

慶熙宮の屋根越しにソウルの秋空を眺める


ソウル歴史博物館


 次に私は、慶熙宮の隣にあるソウル歴史博物館を訪れました。ここは、14世紀末の建都から今日に至るまで、600年にわたるソウルの歴史を扱っている博物館です。

ソウル歴史博物館の正面入口



 入館して常設展示を通覧してみると、単に政治の動きや歴史上の著名人物、重要な遺物を列挙するだけではなく、庶民・市民の生活空間の移り変わりという視点からソウルの歴史を眺められるように、展示構成が工夫されていることがうかがえました。また、ミュージアムショップや資料室などの館内施設も充実しており、訪問者がソウルの歴史に関する情報に気軽に触れられるようになっています。
 ショップで何冊かの展示図録を買って、館外に出てみました。かつて目の前の道路を走っていた路面電車が野外展示されています。電車通学の学生がお弁当を忘れてしまったという設定で、外から母親と思われる女性が弁当包みを差し伸べているという、ほほえましい展示です。

路面電車の野外展示



 ところで、野外展示には、このほかにいくつかの石碑があります。その多くは神道碑(シンドビ)と呼ばれるもので、本来はお墓の敷地(墓域)内に建てられ、墓主の生前の事績を記し伝える墓誌としての機能を持っています。この博物館には、日本の歴史教科書にも登場する朝鮮王朝末期の政治家、大院君(テウォングン)周辺の人物の神道碑が集められています。これらの人々の墓は、もとは南北朝鮮の軍事境界線に近い場所にありましたが、米軍施設を建設するために敷地が収容され、墓を移設したことに伴い、多くの石造文化財がこの博物館に寄贈されたのだそうです。
 それらの石碑を順に目にしながら、博物館の建物沿いにぐるっと回ってみると、表通りからは目に付きにくいあたりに、文字が刻まれていない神道碑がありました。キャプションを見てみると、李鍝(イ・ウ)とあります。広島原爆で被爆死した李鍝公の神道碑が、ここにあったのです。私はこのことを初めて知りました。

博物館の脇に立つ李鍝公の神道碑


広島で被爆死した李鍝公


 広島の平和記念公園に行くと、やや西寄りの位置に「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」があります。碑の写真をよく見ると、篆書体(てんしょたい)で「李鍝公外二万余霊位」と刻まれており、李鍝公をはじめとする2万名以上の犠牲者を慰霊する碑であることがわかります。この碑はもともと、公園の西側を流れる本川(ほんかわ)にかかる本川橋の西詰に建てられていました。しかし、韓国人犠牲者の慰霊碑だけが平和記念公園の外側にあることは問題だ、との声が1980〜90年代に高まり、1999年に公園内の現在の場所に移設されます。

広島平和記念公園内に立つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑



 一方、移設前にこの碑が立っていた場所は、実は、李鍝公が被爆して倒れていた場所だとも言われています。韓国併合の結果として日本の皇族に準ずる扱いとなっていた李王家の李鍝公は、日本の軍人として広島で勤務しており、1945年8月6日の朝、馬に乗って出勤する途中で被爆して、本川橋西詰に倒れていたのだというのです。そして李鍝公は、広島港沖合の似島(にのしま)に直ちに運ばれ、その地で翌日亡くなったのだそうです。遺骸はまもなく朝鮮に運ばれたとのことで、その後の8月15日、ソウルの東大門の近くにあった京城運動場で葬儀が行われたことが、日本の官報(第5592号、1945年9月1日付、p.12)からわかります。
 そうした由縁のある李鍝公の神道碑が、ソウル歴史博物館の脇に立っています。碑の脇にあるキャプションを読むと、「正確な理由はわからないが、おそらく死後、社会が混乱していたために碑文が刻まれなかったようである」とあります。確かに、李鍝の葬儀の日は日本の敗戦の日であり、その後の朝鮮・韓国の社会は、米ソの軍政を経て、新国家樹立に向けて大きな動揺と混乱を迎えます。そして1950年には朝鮮戦争に突入していきました。誰が碑文を作成するのか、その内容はどうするのか、といったことを検討している場合ではなかったのかもしれません。
 とはいえ、それから80年近い時を経て、この碑がいまだに何も刻まれていない「白碑」の状態であることには、複雑な気持ちを抱かざるを得ません。はたしてそれは、社会の混乱だけが原因だったのでしょうか。日本の軍人として日本で被爆死した王族の人生をどうとらえるか、と考えると、ここにはいくつもの大きな問題が関わっているようにも思えます。今後の調査と研究の進展が待たれます。

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