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2021年07月30日

【アートライティングコース】ぼくはいつも、外国では、眼を見開くこと、できればその国の人びとのことばを話すこと、だけでは十分ではないという意見なのだ。(ヴァルター・ベンヤミン)



「ぼくはいつも、外国では、眼を見開くこと、できればその国の人びとのことばを話すこと、だけでは十分ではないという意見なのだ。むしろ、住み方、眠り方、食べ方においてはその国の習慣にできるかぎり順応するよう、試みなければならない。」(ヴァルター・ベンヤミン)

 

長く湿度の高い6月をやっとこえて、照りつける朝日が肌を焦がす京都の夏がやってきましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。ブログの執筆ははじめてなので、はじめまして。アートライティングコース非常勤教員の山家悠平です。

いつもは祇園祭の宵山が終わるころから旅のことを考えはじめ、五山の送り火の頃には遠い異国の空の下、という夏だけ旅人の暮らしをしていたのですが、今年も宵山が中止となり、海外旅行どころではない状況なので昔の旅のことを思い返したり、本を読んだりして日々過ごしています。

冒頭に掲げたのは、ドイツの文芸批評家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の「ナポリ」と題された文章からの引用です(『子どものための文化史』小寺昭次郎、野村修訳、晶文社、1988年、298頁)。『暴力批判論』(1921年)や『複製技術時代の芸術』(1935年)など芸術や文化をめぐるアクチュアルな批評を書いたことで有名なベンヤミンですが、わたしはどちらかというとそれらの批評家としての「本業」よりも、アフォリズムや散文への愛情が結晶したような『一方通行路』(1928年)や『ベルリンの幼年時代』(1950年。ベンヤミンの死後、友人のアドルノの編集で出版)といったスピンオフ的な文章が気に入っています。

この言葉も、やはりスピンオフというか、子どもむけのラジオ番組の原稿として1930年代前後に書かれたものです。

ここではたんに一般的なことをいっているように見えますが、実は批評のための大事なエッセンスがにじんでいると感じます。それは、ただ見る、ということではなく、その対象の<内側>に入り込むようにしてとらえる、文化や習慣が身体におよぼす力そのものを、やはり自分自身の身体を通して把握する、そんなやりかたです。おそらくベンヤミンにとって書くことは、そのような力から切り離せない経験としてあったのではないかと想像します(まったく専門外なので的外れかもしれませんが)。

たとえば、『一方通行路』の巻頭には次のような一文があります。

「この通りの名は/アーシャ・ラツィス通り/かの女が技師として/著者の内部に切り拓いた/道にちなんで」(『暴力批判論』岩波文庫、野村修訳、1994年、162頁)。

ベンヤミンがアーシャ・ラツィスというリガ出身の演劇活動家と出会い恋に落ちたのは、1924年に南イタリアのカプリ島に滞在していたときのことで、あるいはそのラジオの原稿を書きながら、ベンヤミンは自らに深く切り拓かれた道を再び辿り、身体の上のナポリという空間や、ラツィスと出会うことになったカプリ島の日々との邂逅をはたしていたのかもしれません(ナポリはカプリ島へのフェリーの発着点です)。

そんなベンヤミンの言葉にひきつけられるようにナポリを訪れたのは2003年の夏のこと。目に飛び込んできたのは、細い路地をジェットコースターのように火花を飛ばしながら走りすぎるスクーターと、早朝に一斉に花が開くように店を広げる魚市場、そしてスープ皿山盛りのムール貝でした。

Zuppa di Mare」(海のスープ)とメニューに書いてあったそのムール貝の山を、どこにスープがあるんだよとながめながら、必死に食べて、なるほどこういうふうに山盛りの貝や命がけのスクーターといった形で、いやおうなく身体に流れ込んでくる文化のリズムを、言葉という虫取り網でとらえようとすることが文化を描くということなのかな、とぼんやりと考えたことを覚えています。

旅から帰ってふたたびベンヤミンの『子どものための文化史』をひらくと、魚介類については、ドイツの子どもたちに聞かせることを意識していたのか、「ひとで、かに、たこ、巻貝、いか、その他たくさんのなめくじみたいなもの(きみたちはそれを見ただけで鳥肌が立ちそうなやつ)が、ナポリでは珍味としてうまそうにすすり込まれている」(298頁)とかなり戯画的に描写されていて、それがまたおもしろかったり……。

どこにもいけないので、ついはるか遠い夏を回想しつつ書きました。みなさん、よい夏の日々をお過ごしください。

(写真はベンヤミン終焉の地であるスペインのポルボウの共同墓地。かつてはベンヤミンが葬られていたそうですが、ベンヤミンの同行者が払った墓地使用料が切れた1945年以降は地元の家族の墓になり、ベンヤミンの遺体は行方知れずになっているとのこと。詳しくは長田弘『アウシュヴィッツへの旅』中公新書、1973年、116-125頁。撮影は2004年)



 

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