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2022年09月07日

【通信制大学院】これから書き手(もしくは編集者)を目指すあなたへ(編集者・田中尚史)―文芸領域リレーエッセイ④



2023年度に新設する文芸領域への入学を検討する「作家志望者」「制作志望者」へのエールとして、作家、編集者、評論家の方がリレーエッセイとしてお届けします。

今回は文芸領域の教員で編集者の田中尚史さんのエッセイをご紹介します。




これから書き手(もしくは編集者)を目指すあなたへ


本は好きですか? 作家や編集者を目指しているあなたは、きっと迷うことなく、はいと答えることでしょう。好きな本は何ですか。なぜその本が好きですか。どこが好きですか。どうしてそこが好きですか。好きではない本や小説は、どこが気に入りませんか。
この大学院は、この「なぜ、どこが、どうして」を考える場所です。必要なのはただひたすら好奇心、面白がるココロです。
面白がれることは才能ではなく、コツさえつかめれば面白いの幅はいくらでも広がります。もちろん、ただ漫然と面白がっているだけではそうはなりません。なぜ、どこが、どうして面白いのかを考えつづけることが必要です。
これは書き手にも大事なことですが、とくに編集は、文章、写真、イラスト、造形などなど、あらゆる形態あらゆる事象に、よさ、面白さを見つけることが仕事です。それは、まだ誰も知らない、気づいていないよさを発見し、伝える技術と言ってもよいかもしれません。

では、よさとはなんでしょう。面白さとはなんでしょう。
まだ編集者になってまもない頃に、つとに名文家で知られる先生にこう尋ねたことがあります。
「いい文章って何ですか?」
先生は盃をあおいで、ひと息入れ、
「そんなものはありません」
と、物言いこそおだやかですが、きっぱり断言されました。こちらが怯んだのを察してくださったのでしょう、先生は「あの作家のこの作品は、まあ見られたものだったけど、晩年に書いたものは支離滅裂だよね」などと冗談めかして口にした後、付け足しのように、
「むかし、遊女が書いた走り書きが残っているんですよ」
と仰いました。
「つろおま──。つろうございます、つらいです、とね。つ・ろ・お・ま。たった四文字、いい文章でしょう?」
はあ、なるほどと言いながら、はぐらかされたような気がしたものです。けれどいま思い返してみると、先生の困惑はよくわかります。
要するに、いい文章だとか名文だとか、雑な言葉でまとめるな、と仰りたかったのでしょう。文章に上手下手はある。けれどもその巧拙が問題ではない。走り書かれた四文字のように、たどたどしい文章であっても真正な言葉は読んだ者をたじろがせる。その言葉の力にこそ目を向けるべきではないのか。よい文章がそこにあるわけではない。その文章のよさ、面白さを見出すのが、ほんとうの読者、編集者ではないのか、と。

よい、面白い、という言葉はそれだけでは何を言ったことにもなりません。よさや面白さには答えがないからでもあるし、答えが無限にあるからとも言えます。
でもそれって、何を面白いと思うのかは、人それぞれってことにならないか。
その通りです。六法全書を食い入るように読みふけりながら、時折ふと笑みを浮かべる人もいれば、数式の並んでいる論文に熱心に書き込みを入れながら、そうか、なるほどとうなずく人もいます。その人が経験してきたこと、もっている知識によって何を面白いと感じるかは異なる。これから面白いものを書こう、編集しようと思っているあなたにとっては、困った事態です。
けれど、だからこそ面白いのです。
世界には自分のまだ知らない面白さがあると想像してみてください。六法全書や数式だらけの論文のどこがどう面白いのか、どうすればそれがわかるのか。それは知識の有無とは関係ありません。知識が及ばなくともきっと手段はある。でなければどうして、外国文学や古典文学を私たちは理解できるでしょうか。
逆から考えてみましょう。あなただけが知り得た面白さをどうすれば他人に伝えられるか、いかにして他人を面白がらせることができるのか。なぜ、どこが、どうして面白いのかを考え詰めた先に、その答えはあるはずです。
面白さの答えは無限にある。それはあなたがこれから書くもの、つくるものに無限の可能性、無限の自由があるということです。

もう一度「つろおま」に戻りましょう。遊女の残したその走り書きは、何に書かれていたのでしょう。座卓の隅か、扇子の端か。墨で書かれたのか、それとも紅か。書いたのは明け方か、いや夕暮れだったか。いったい彼女はなぜそこにいて、何がそれほどつらかったのか──。そんな想像のできる読者に出会わなければ、この走り書きはただのゴミとして捨てられていたかもしれません。
装幀家・菊地信義がこんな風に言っています。
作品は、読まれることで真に存在したといえるものです。読まれない本は存在しても、ないに等しい。言葉で表記された作品というのは、ひとりの読者を、または多くの読者を得て、その読者の数だけ、作品がそこに生まれたといえるものです。
(『新・装幀談義』白水社刊、2008年)

読者の数だけ、作品がそこに生まれる──。作品が読まれるたびに、読者ひとりひとりに生じる化学反応のすべてを予想することはできません。書き手や編集者にできるのは、面白いを全力で届けることだけです。それがひとりであろうと、多くの読者であろうと。
書くことにも編集することにも技術はあります。それは学ぶことができるかもしれません。けれどその根底にいつも、届けたいという思いはもち続けてほしいと願っています。

 

©伏貫淳子


田中尚史(たなか・ひさし)


1967年生まれ。出版社勤務、書籍編集者。京都大学大学院文学研究科フランス語学フランス文学専攻修士課程修了。


 
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