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文芸コース

2023年06月27日

【文芸コース】本を読むということ 2/移動しながら読む。

皆さん、こんにちは。文芸コースの川﨑昌平です。今回も「本を読むということ」をテーマにブログをお届けしたいと思います。

 薪をたくさん背負いながら本を広げつつ歩く仕草をしている姿の像で有名な、二宮金次郎。江戸時代後期、十八世紀末から十九世紀前半にかけて活躍した農政家として知られる二宮尊徳の幼少期をモチーフとした像であるそうです。幸田露伴が書いた『二宮尊徳翁』(一八九一年、博文館)では、挿絵の中で、薪を背負って読書しつつ山道を歩く二宮金次郎少年の姿が描かれています。

この時点でイメージアイコンとして金次郎像が確立されていたのか、はたまたこの挿絵が嚆矢なのか、私にはちょっと調べがつかなかったのですが、日本全国各地に「二宮金次郎像」が建てられるようになったのは、諸説あるのですが概ね昭和初期、皇民化教育などが盛んになってきた時期と重なるようですから、この挿絵が描かれた当時は、まだ彫塑としての二宮金次郎はいなかったと考えられるかもしれません。

いずれにせよ、本学文芸コース主任として物申す部分があるとすれば、いかに「本をたくさん読む」ことを推奨する立場にあるとは言え、歩きながらの読書は身体的な側面での危険性が伴うため、決して奨励できないということだけは、断言しておきたいと思います。

危険な行為には違いないが、「労働」と「学問」の両立を体現していると見れば、現代的なワークライフバランスの証明とも読めなくもない。※画像は『二宮尊徳翁』(幸田露伴著、博文館、1891年)より。



 さて「歩き読書」は危ないという意見を持つ私ですが、当然ですがその理由は、歩くというアクションに当事者の身体性がかなりの規模で拘束されるからです。読書という行為は視界のかなりの部分を占有するものですし、必然、意識の大部分も本に広がる文字情報に注がれてしまいます。すると、外部要因への注意が難しくなる。躓いたり、誰かにぶつかったり、転んだり倒れたり……いずれにせよずいぶんと安全ではなくなります。

読書というものは、その精神的な影響面において、よい意味でも悪い意味でも「危険性」を有する行為ですが、身体的な危険性は極力排除されなければなりません。

 ……そう、身体的な危険性さえ、排除できればよい、、、、、、、、、、、、、、、、、、のです。

 二宮金次郎少年は、きっと寸暇を惜しんで本を読みたいと願ったのでしょう。ですから薪を背負って運ぶという労働の最中にあっても、書物を紐解きたいと考え、あのような立ち居振る舞いを選んだのです。その姿勢自体は少しも間違いではありません。問題は、歩いてしまったから危険が伴うのであって、であるならば、歩かなければよいわけです。

 現代は移動において自身の肉体のみを使わなければならない時代ではありません。バスやタクシー、電車、飛行機など、誰かに自分を運んでもらえる乗り物やサービスがたくさん存在します。二宮金次郎少年は歩くより他に手段がなかったかもしれませんが、私たちは違います。公共交通機関を用いれば、それほど労せずとも別の場所、別の土地へと移動することができます。そして……移動という運動を第三者に委ねることができれば、その時間を、有意に読書へと投下することが可能であるわけです。


 というわけで、やや前置きが長くなりましたが、本を「どう読むか」を語るこの論考、第二回のテーマは「移動しながら読む」です。

 無論、バスや電車などに乗っている最中に本を開くことなんて、多くの人が経験しているでしょう。とりたてて珍しい行為ではないはずです。

しかしながら、私自身、移動中の読書体験を振り返ってみると、あくまでも出発地点から目的地点における移動時間を読書にあてていただけのように記憶しています。つまり、主従関係で言えば、移動が主であり、読書は従。ある乗り物に乗り込んで、さあ動き出すぞとなって本を開き、そろそろ目的地に到着するぞとなれば本を閉じる。読書の途中であったとしても、降りると決めていた駅なり停車場なりに到着すれば、必ず降りる行為を優先していました。


 しかし、もし主従を逆転させたら、どうなるでしょう? 読むという行為を主役に据えて、移動手段を脇役にする……ような読書体験は可能でしょうか?
 思考実験を繰り返すのも芸がないでしょうから、早速ですが実践してみました。以下はそのレポートです(個人情報を晒さないために、時刻表記などをぼやかして記していますが、ご容赦ください)。

 ○月○日○曜日、午前○時○分。スタート地点は西武線池袋駅。用意した本は大江健三郎の『同時代ゲーム』です。ここのところ、大江健三郎ブームが私の中で巻き起こっておりまして、ちょっと腰を据えて読む時間が欲しかったのです。


 さあ、どの電車に乗ろうかしらん。改札入り口から向かってホームの右端に銀色の洒落た電車が停まっており、Laviewという名の特急列車であるらしく、乗ればスーッと秩父まで行けるとか。かなり心惹かれましたが、キレイで華やかな列車に乗ってしまうと、そっちのほうに意識が持っていかれそうな気もします。ある程度読書に集中したいと思ったので、普通の各駅停車を選びました。三番線に停まっていた列車に乗り込みます。


 車内は空いており、難なく座席を確保できました。座ってすぐ、電車が動き出します。そうして、私もすぐに本を開きました。『同時代ゲーム』はすでに何度も読んだことのある作品で、私の家の本棚にはハードカバーのものもあるのですが、この日用意したのは新潮文庫のもの。移動中はやはり重たくない判型の本がよいように思います。


 いやそれにしてもおもしろい小説は、何度読んでもおもしろい。いいかげん筋も流れも脳裏に焼き付いている気がするものの、しかし、読むたびに発見をもたらしてくれるのも、大江健三郎の魅力です。


 読み飛ばしなどせず、冒頭からゆっくり読み進め、気がつけば列車は練馬駅に停車していました。道中の光景に神経を割く余裕はありませんでした。降りる駅を気にせずともよいのが、読書が主役の「移動しながら読む」のよいところかもしれません……と思ったのですが、ちょっと停車時間が長いように感じ、慌てて荷物を抱えて電車から降り、案内表示を確認すると、私の乗っていた電車の行き先は「豊島園」となっていました。

豊島園は終点駅であり、そこから乗り換えようにも大江戸線ぐらいしか思い浮かばず、大江戸線に乗ったところで下れば光が丘駅まですぐですし、上るにしてもまた都内に戻ることになり、ごく狭い範囲をグルグルする感じが少し気に触り、いや、それはそれで『同時代ゲーム』の作品世界と通底する体験なのかもと思いとどまったり……といった思案を数十秒のうちに展開させた結果、私は豊島園行きに再び乗車せず、次に来た小手指行きの電車に乗り換えることにしました。


 東長崎や江古田あたりでは地面を走っていた西武線ですが、石神井公園あたりまでは高架であるため、車窓の景色も都下郊外の風情に溢れ、それゆえに私の目を奪うこともなく、やっぱり私は読書に集中できました。


 が、大泉学園あたりから再び地面を走る西武線に揺られつつしていると、お腹がいたくなってきました。普段、読書に集中しているときは、生理現象すら放念できるぐらいの読み方を体現できる自信を持つ私ですが、ひょっとすると初めての「本を読むために移動する」という体験が、身体に平素とは異なる緊張を強いていたのかもしれません。


 こんなことならトイレがついているであろう特急列車にするべきだったかと、自分の池袋駅での判断を恨めしく思いつつ、とは言え背に腹は代えられないというか、腹具合に背けない動物的判断により、仕方なく、私は秋津駅で下車しました。用を済ませると、なんとなくもう一度同じ路線に乗ることがつまらないようにも感じられ、秋津駅から数分歩いて、武蔵野線新秋津駅に向かいました。府中本町方面よりは東に進もうと、東京行きに乗り込みます。東京行きと言ったところで、武蔵野線は環状線的な構造ですから、のんびり埼玉県南部を移動し、千葉県東部をぐるっとカーブし、やがて東京に至る道程です。たっぷりのんびり関東平野の低いところを進みながらページをめくる体験は悪くない気がしました。


 乗り込んでみると案外乗車率は高く、座席は埋まっていました。仕方なし、立ちながら本を開きます。文庫本でよかった。ハードカバーならちょっと読むのが難しかったでしょう。線路の振動を五体にひしひし感じつつ読む大江健三郎も悪くないと思ったのも束の間、お隣の東所沢駅で何人かの乗客が降り、たまたま私の前の席が空いたので、武蔵野線の長い道のりを思い浮かべると、いつまでも立ち続けるのはちと苦しかろうという判断から、座ることにしました。

 いやあ、なんとも言えない集中をもたらす空間でした。適度に長い駅間の距離がよいのか……うーん、違うか、武蔵野線という電車の特殊性もあるような気がします。武蔵野線は関東南部を東西に緩やかなカーブを描きながら横断する路線です。その特性から、あまり「乗り続ける人」はいません。そりゃそうです、本当に私が東京駅に行くことそのものを目的としているならば、とっとと武蔵浦和なり南浦和なりで乗り換えて、都心に向かったほうが早いわけですから。

したがって、移動を主軸に据えた人々は、武蔵野線に乗り続けることをしないのです。目当ての乗換駅に到着するや、さっさと降りてしまいます。私も移動するために乗車していたならば、そうしたでしょう。が、今回の私の目的は読書。本を読むために移動している私には、目的地そのものが消失しており、自然と乗り降りする人々との差異が私自身の肉体を特別なものへと、空間ごと変質させてくれていったのかもしれません。それが、妙な集中力の正体であるように感じました。


 南越谷を過ぎ、私の生まれ故郷である三郷を過ぎても、私の読書への集中力は削がれませんでした。一瞬だけ、三郷駅で下車して、年老いた両親に顔でも見せようかとも思いましたが、つい先月も息子を連れて帰っていますし、孫を伴わない私のみが唐突に登場したところで彼らも訝しむだけでしょうから、その案をさっさと打ち消します。

 さて、江戸川を越えたあたりで、私がどのくらいまで『同時代ゲーム』を読み進めることができたかというと、実は「第二の手紙 犬ほどの大きさのもの」の途中ぐらいまででした。ページ数で言えば一七〇ページぐらいまで。

第一回で述べたように、私は「しおりを使わずに読む」ことをする人間であるため、秋津駅での途中下車などで本を閉じるたびに同じところを読み返す事態に陥ったから……でもあるのですが、本音を漏らせば、集中するあまり、「第一の手紙 メキシコから、旅のはじまりにむかって」の気になる箇所、もっと言えば今回の「移動しながら読む」のおかげで発見できた、かつては読み落としていた(ように思える)鋭い文章たちのきらめく刃先に、思考の枝葉を勢いよく切り落としてもらっていたからであるように感じています。

記憶しているはずの文章たちから、新たな思考の糧を得てしまい、それが楽しくなって、読んでは沈思し、また読み出す……という流れを繰り返してしまったがゆえに、さほど読み進めることができなかったのです。


 もちろん、その結果に後悔などあるはずもありません。
 武蔵野線がようやく東京駅に到着したとき、私は再度「第一の手紙 メキシコから、旅のはじまりにむかって」に登場する、あの物語を導くさまざまなイコンとして機能する言語たちを、手が火の気配をダイレクトに感じすぎるあまり、普通に熱いと叫びたくなるぐらい根本までミミッチクタバコを吸い続けるときの心持ちで、まだ吸える、まだ煙は出ると肺を空っぽにしながら過呼吸気味に味わっていました。

いや、実際問題、大江健三郎の文章は、何度だって吸えるのです。タバコ葉の芳しくも濃厚な旨味が一向に紫煙となって天に召されない、私などでは到底それを灰芥として消費し尽くせない、不思議で、深い魅力に満ちた文章なのです。その事実を、なんでもないある日の日中に、確認できただけでも、私の「移動しながら読む」は価値があったと言えるでしょう。

 みなさんもぜひ、「移動しながら読む」をやってみてください。自分の意志とは関係なく動き出す空間に一定時間コミットしつつ楽しむ文芸表現は、必ずやあなたの意識とは無関係だった、でもあなたに新たな刺激をもたらすに違いない、小さな(あるいは大きな)発見をプレゼントしてくれるはずです。

文芸コース主任 川﨑昌平


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