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文芸コース

2024年01月13日

【文芸コース】「もの」になりきる文章術

アクアリウムを観察するだけではダメだ。アクアリウムに「なって」世界を観察しよう。結果、産み出される文章は、あなたの日常を必ず凌駕する。



皆さん、こんにちは。文芸コース主任の川﨑昌平です。

最近、「どうすれば観察力は身につきますか?」とか「観察眼の重要性はわかったが、具体的な鍛え方がわからない」とか、そんな質問を学生の皆さんからもらうことが増えました。確かに、講義の中で「優れた観察による文章の例」などは紹介しましたが、さていざそれを実践しようとすると、そう簡単な技ではないのは、事実です。
が、千里の道も一歩から。本日はこのブログ上で、文章を書くためには必須と私が考える、「観察力の磨き方」を紹介したいと思います。これを覚えておくと、文章の練習が非常に捗りますから、皆さん、よく読んで実践してください。

ステップ1:対象をよく見る
当たり前ですね。ボケーっと見ているだけでは、観察にはなりません。発見もありませんし、気づきも薄い。対象がどんなものであれ、物質性や素材感、色、形……見るべきポイントはたくさんあります。書きなれないうちは、そうした観察の結果を逐一言語化してみましょう。メモをするわけです。それを繰り返していると、やがて自分の書く文章の中で、対象が非常にイキイキと動き出すようになります。さらに慣れると、観察の結果を単に並べるだけでなく、修飾節において適度に足し引きができるようになります。いわゆる文章における「描写力」とは、この鍛錬を重ねる過程で磨かれていくものなのです。

ステップ2:対象の文脈を見る
見える部分だけ眺めていても、良質な観察とはなりません。対象は、それぞれに時間や社会といった背景を有しています。人間個々人の持つ背景、すなわち文脈もそこには含味されるでしょう。それらはパッと見ただけでは見えないものかもしれません。が、よく見て、よく考えることをすれば、次第に輪郭が浮かび上がってくるはずです。無論、そこには多分に書き手の主観も入り込んでしまうわけですが、しかし、主観が読めない文章もまた、無味乾燥でつまらないものになります。つまるところ、ステップ1が客観的観察であるならば、ステップ2は主観的観察と言い換えることができます。どちらも重要です。客観的観察だけだと情景が楽しみにくいし、主観的観察だけだと強引な展開が目立ってしまう……バランスをとるのは難しいものですが、しかし、どちらの技術も持っておくことがまずは肝要と言えるでしょう。

ステップ3:対象に「なって」見る
さあ、ここからが本題です。ぶっちゃければステップ1もステップ2も基本中の基本であって、気の利いた文章術の本であればだいたい言及しているポイントです。皆さんも「そんなこと知ってるよ」と思われたかもしれません。わざわざブログで文章術を披露する以上、もう少しおもしろいテクニックを論じたいと思います。というわけで、まずは下記を読んでください。

まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。彼等は声と、鼻息と、跫音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊に過ぎないのでございます。私は、彼等の一人一人を、その容貌の代りに、肌触りによって識別することが出来ます。あるものは、デブデブと肥え太って、腐った肴の様な感触を与えます。それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨のような感じが致します。その外、背骨の曲り方、肩胛骨の開き工合、腕の長さ、太腿の太さ、或は尾骶骨の長短など、それらの凡ての点を綜合して見ますと、どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。人間というものは、容貌や指紋の外に、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することが出来るに相違ありません。
異性についても、同じことが申されます。普通の場合は、主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものは、まるで問題外なのでございます。そこには、まる裸の肉体と、声音と、匂とがあるばかりでございます。
『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』(光文社文庫、光文社、2004年)より引用

はい、江戸川乱歩の『人間椅子』からの引用です。……皆さんは椅子の内部に入った経験がありますか? 私はありません。ですから「まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。」と書かれても「あー、わかるわかる、暗いよね、椅子の中って」と同意することができません。おそらく江戸川乱歩も豊富な実体験からこの描写をしているわけではないのでしょう。が、乱歩には常人には及びもつかない想像力があります。その想像力を駆使して、キャラクターを椅子に閉じ込め、椅子内部から外界(この作品では非常に形而上的な意味での「外部」への表現性も含んでいるように読めます)を観察している様子を描いているのです。

想像力を駆使するより他ない条件下において、乱歩が用いる観察の道具は、身体性そのものです。目に依存していない。肉体のすべてを用いて対象を観察しようとするプロセスが一言半句たりとも無駄なく書き尽くされています。ベースとしてはステップ2で述べた主観的観察がメインのように読めますが、読者である我々が提示されたその世界観に没入してしまうのは、肉体を媒介とした客観的観察がそこにあるように感じ取ってしまうからでしょう。この主観と客観のバランス感覚、この描写力、この表現性は日本文学史上でも屈指のレベルにあると私は個人的に断言します。このレベルまで想像力を鍛えられたら、もうそのイマジネーションを言葉として発するだけで創造が完成するわけです。さすが乱歩。

無論、私たちも呆然としているわけにはいきません。千里の道も乱歩から。イマジネーションの怪物に半歩でも近づくための努力を重ねていきましょう。
というわけで、まずは皆さん、今年はぜひ、人間ではない「もの」になって文章を書いてみませんか?「もの」になって観察するんです、世界を。そのためには「もの」自体の客観的な観察も重要ですし、「もの」に自身を仮託したあとの主観的な観察も大切ですし、それらを発展させるための想像力も不可欠です。どれから、ということもないでしょう。

修練を重ねていけば、それらを総合的に鍛える意識が芽生えるはず。あと、間違いなく語彙も増えるはず。だって、人間ではない「もの」になるわけですから、「もの」ならではの外部へのアプローチを描こうとすれば必然的に今ある言葉では足りなくなるに決まってますから(もしかするとそこを完璧に理解していたからこそ、漱石はまず「猫」になって、文章を書いてみたのかもしれませんね)。

さあて、私は何になろうかしらん。電柱? マグカップ? 動けないのは寂しそうですが……。あ、自動車? 「ナイトライダー」を思い出しちゃうな……。いや、空き地? 自然を五体で感じられそう……。む、壁? むむ、箱? いやそれだと先例が……。アイデアを練ろうとすればするほど、表現の先駆者の偉大さに触れられることも保証します。いずれにせよ、思考実験としても楽しいことは疑いないですし、文学の可能性を書きながら探索できるアプローチですから、興味のある方はやってみてください。2024年は「もの派」文学の幕開けの年、ということで、私もチャレンジしてみるつもりです。

文芸コース主任 川﨑昌平

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