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文芸コース

2024年04月26日

【文芸コース】文章とデザイン/第1回 文章とフォント



皆さん、こんにちは。文芸コース主任の川﨑昌平です。
早速ですが、まずは下の図1を見てください。

1は源ノ明朝(Light)、2は筑紫Aオールド明朝(L)、3はリュウミン(L)、4はMS明朝(標準)。



私の書いた2行の文章を、それぞれ4パターンの書体(フォント)によって示している画像です。字体としてはどれも明朝体ですが、ひとくちに明朝体と言っても、いろいろあるんですね。1の源ノ明朝や4のMS明朝は、例えば漢字の横に引くラインの入り方がまっすぐで、止め方だけ膨らんでいます。対して2の筑紫Aオールド明朝や3のリュウミンは始点も終点も膨らんでいます。「春」の一画目や「夜」の二画目などのラインに注目すると、違いがよく見えるはずです。
ひらがなも全然違いますね。「わ」は書体によってかなり個性が出る文字ですが、歴然とした差異が見えます。筑紫Aオールド明朝は1画目と2画目がつなげてあり、対してリュウミンはしっかり分離しており、源ノ明朝とMS明朝は1画目の終わりを跳ね上げて、結果として跳ねた部分が2画目のストロークとくっついている……特にどの書体がよいとか優れているとか、そういった話をするつもりはありません。書体にはいろいろなものがある、とわかってもらえればじゅうぶんです。ちなみに2020年代の出版業界は「文字は大きく、くっきりわかりやすく」みたいな流れが支配的(特に文芸ジャンルでは)であり、私も本文デザインの仕事をするときは「えーっ、もっと大きく? じゃあ13.5Qにして……細いのもダメなの? 筑紫Aオールド明朝とか好きだったんだけど、太くすると途端に文字が主張しすぎちゃう気がするからなあ……じゃあ、リュウミンのRぐらいにしておくか」みたいに試行錯誤をしています。
では、明朝体を太くした書体にはどんなものがあるかというと……図2を見てください。

5はリュウミン(B)、6は小塚明朝 (B)、7はZENオールド明朝 (B)、8は凸版文久見出し明朝(エクストラボールド)。



わざと太すぎるもので組んでみましたが、これだけ太いと、少なくとも書籍の本文には不向きでしょうね。今は2行だけ読んでいるのでさほどのストレスはありませんが、何十頁も、何万文字もこの太さの明朝体と付き合わねばならないとなると、かなり厳しい気もします。が、逆に言えば、2行程度なら問題ないわけです。例に出した2行の内容が頓珍漢ゆえにイメージしにくいかもしれませんが、例えばポスターがあったとして、そこに付されるキャッチコピーだとすれば……このぐらいの太さの明朝体でも全然OKかもしれません。
いずれにせよ、太さで見え方がまるで異なるという事実は、伝わるでしょうか?

もう少しいろいろ実験してみましょう。図1も図2も明朝体でしたが、それと双璧をなす字体(ほんとうは字体にももっといろいろあります。2種類しかないわけではありません)であるゴシック体だと、どんなふうに見えるのでしょうか? 早速つくってみたので、下の図3を見てください。

9はヒラギノ角ゴシック(W3)、10は新ゴ(L)、11はたづがね角ゴシック (L)、12はAXIS Font(L)。



小説が好きな人は、書籍の本文というとついつい明朝体ばかりを連想してしまうかもしれませんが、文芸書ならさておき、本文がすべてゴシック体で組まれている書籍は決して珍しくありません。ビジネス書や子供向けの学習参考書などはゴシック体だけで組版をすることもよくあります。いずれにせよ、明朝体同様、ゴシック体にもさまざまな書体があることが図3から伝わるでしょうか? ゴシック体は、紙の上というよりも街中やウェブなどで出会うことのほうが多い書体かもしれませんね。注意深く観察すると、駅や道路の標識や街頭広告などに実にいろいろなゴシック体が使われていることを発見できるはずです。

ここまで明朝体とゴシック体にわけて図例を挙げましたが、ゴシック体と明朝体を混ぜたような書体もあれば、同じゴシックでも丸ゴシックと呼ばれるような書体もあります。今度はいろいろな例ということで、下の図4を見てください。

13は源暎アンチック(Regular)、14は貂明朝アンチック(Regular)、15は筑紫B丸ゴシック(ボールド)、16はポプらむ☆キュート(Normal)。



日本におけるアンチックとは、そもそもは太い仮名文字のみの活字書体を意味しました。長く漫画における活字として使われ続けてきたため、現代では「漫画用のフォントのことでしょ」とか「漢字部分はゴシック体、ひらがなやカタカナなどを太めの文字でデザインした書体のことだ」とか、そんなふうに思われている向きもあるようです(ちなみに、欧文活字でアンチックといったら「セリフが角ばっていて線の太さが均一な書体」を意味します)。
いずれにせよ、1314も漫画に施された文章なら違和感を抱かず読めそうですが、小説の本文だと思ってしまうと……なんだか不思議な読後感になりそうですね(書籍でアンチックの使用例がないわけではありません。児童書などでは昔からよく使われています)。
15の筑紫B丸ゴシックはどうでしょう? 私は結構、漫画における「ナレーション」や書籍における「キャプション」などに、もう少し細めの筑紫B丸ゴシックを使うことがあります。A丸ゴシックよりもちょっとクセが強くて、でも可読性は低くなく、それでいてココにいるぞ、と言葉が主張しやすいようなデザインに思えて、好きなんです。リニアな小説ならともかく、雑誌的なレイアウトのページにおいては、読者の視線をどう動かすかを考えることはとても大切なんですが、その手助けをフォントがしてくれることもあるわけです。
おっと、今、読者の視線と私は書きましたが……その観点から考えると、16のポプらむ☆キュートはどうでしょう? もじワク研究(https://moji-waku.com/)が制作したフォントです。このフォントで書籍の本文すべてを組み上げようとは私は絶対に思いませんが(実在するならば、それはそれで読んでみたい気もしますが)、しかし、この2行だけをまじまじ見つめていると、「おはようございます」の一文に……なんというか、音が生まれてきたような気がしませんか?
2行しかありませんから、前後も何もないので、判断材料に乏しいのは否定できませんが、少ない要素から文脈を考えるとすれば、おそらく「おはようございます」というセリフを発しているのは、「春子」なる名称の人物なのでしょう

さて、いよいよここからが、今回のテキストの本題です。いいですか? 次の問を皆さんに投げますから、よくよく答えを考えてみてください。

 この文章の文体は、一人称か? それとも三人称か?

そんなのわかりっこない? 判断材料が乏しすぎるから結論は出せない? うん、どれも正解です。でも、よーく自問自答してみてください。例えば図114の明朝体で構成された2行を読んでいるとき、皆さんは「春子」が三人称視点でつむがれたキャラクターであることを、疑っていましたか?
少なくとも、書いた当人である私は、まるっきり疑っていませんでした。これは三人称の文章である、と。文体において嘘偽りなく三人称視点による世界が構築されている、と。

が、そんな私自身の思い込みを打ち砕いてくれたのが、16のポプらむ☆キュートです。

InDesign上でフォントを指定し、変換された結果を眺めた瞬間、衝撃が走りました。

 これ、春子の一人称視点の可能性もあるのでは?

多少、言葉尻をいじって、その可能性を検証してみましょう。図5を見てください。

書体は読者の視線を変える。視線が変われば、言葉も変わる。



17はセリフにキャラクターをより滲ませてみました。18は「春子」の主体的な動作と思しき「言う」の連用形に助動詞「た」を紐づけ、助詞「ら」を添えてみました。19は結果を示す、どちらかといえば観察に基づく文章に対して口語的な文末で結び、地の文により主観を香らせてみました。20はセリフ内に発音不可能な、視覚効果しか持たない記号を持たせることでキャラクターのビジュアルを想起させつつ、地の文をほぼ完全に口語的にしてしまうことで「春子」が「春子」当人の一人称だと思わえる仕掛けを施してみました。
20まで行くと、もう完全に一人称の文体であることがわかりますが、19も読み間違うことは少ないでしょう(春子ではない、別の誰かの視点を基準とした一人称の可能性ももちろんありますが)。182行しかない物語を、動作の主体を明らかにすることで、微細なレベルではありますが、深まっているように読めます。時間経過によって夜が明けたのではなく、春子のセリフによって夜の幕引きが完成した、みたいな。あるいはここでの「夜」はもっと形而上的な何かであって、その終焉を物語らんとしているのかもしれません。17はセリフの語尾が変わっただけですが、案外この程度の修正でも、地の文の一人称っぽさが感じられなくもないなと、自分で書いておいてやや驚いています。このあたりの感覚に今ひとつ賛同できないという人は、少女小説と呼ばれるようなジャンル(例えば『マリア様がみてる』シリーズ(今野緒雪著、19982012年、集英社)とか)を読んでみてください。「自分の名前を人称として使う文体」の特徴というか、雰囲気を確かめられるはずです。

さあ、長くなりましたが、結論を述べましょう。私はデザインの話をしたいわけではありません。それならもっと丁寧に各フォントの歴史とかデザインの意図とか実例とかを詳細に述べなくてはならないはずです。
そうではなく、本学文芸コースに在籍されていたり、あるいは文芸コースに興味をもってくださっていたりするような皆さんに対して伝えたかったことは、

 言葉(文章)の意味は、見え方(デザイン)によって、変化する。

 という真実であり、もう少し踏み込むならば、

 読者はテキスト(文章そのもの)ではなく、物質(デザインの結果)を読むのである。

というメッセージなんです。
物質は紙に限りません。電子書籍だって確固たる物質です。何にせよ、あなたの表現と読者は、ほぼ確実に物質性を伴ったメディアを経由して接続されます。テキストそのものを書き手と受け手で共有するなんて、大学における学生と教師の関係性か、出版業界における著者と編集者の間柄か、ぐらいしか現実にはありえません。ほとんどの場合、テキストは(メディアとしての再現性を確保するために)デザインされた結果として、読者のもとに届けられ、その上で読者は読むことをして、思考や感情をそこに遊ばせるわけです。
ですから私の主張は次のようになります。

 文章を書きたいと願うのならば、デザインを無視してはいけない。

別に私は、文芸を学びたい人々に、デザイナーになれ、と言っているわけではありません。いろいろなフォントの実例を今回提示しましたが、ほとんどは有料の書体であり、すべて用意しようと思ったら結構な金額がかかりますし、それらを駆使する制作環境だって、整えるのはそこそこ大変です。なので、そんなことはせずとも大丈夫。
そうではなく、デザインについて、無頓着であってはいけない、という一種の期待なのです、この一連の私のテキストは。デザインについて考えるということは、とりもなおさず、読者についてイメージする作業にほかなりません。読者についてより強く思いを馳せるための手がかりとして、デザインは有効に機能します。ひとりよがりの言葉、あるいは狭い世界に閉じた文章で終わらないためにも、まずはデザインについてよく考えることをしてみましょう。必ず、これから皆さんが書こうとする文章に、読者の存在がしっかりと根ざすようになるはずです。

文芸コース主任 川﨑昌平

文芸コース| 学科・コース紹介

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