PHOTO

PHOTO

アートライティングコース

  • HOME
  • アートライティングコース 記事一覧
  • 【アートライティングコース】「田園交響曲を聞くよりも日の出を見るほうが役に立つ。」 クロード・ドビュッシー(『ムッシュー・クロッシュ、あるいは非ディレッタント』)

2026年06月02日

【アートライティングコース】「田園交響曲を聞くよりも日の出を見るほうが役に立つ。」 クロード・ドビュッシー(『ムッシュー・クロッシュ、あるいは非ディレッタント』)

みなさま、こんにちは。アートライティング・コースの教員上村です。京都はあざやかな新緑の山々に囲まれています。瓜生山キャンパスも青々とした植物の香りで一杯です。本日は古くて新しい話題、自然と芸術の関係について、最近いまさらのように考えたことを綴ります。

世はまさにハイパーマニエリズムの時代です。
マニエリズムとは「マニエラ」(手法)主義です。作品を作るには、もちろん先人たちが研鑽し積み上げてきた手法が大事です。樹木を一本描くにも、人物の驚く表情を描くにも、必ずそこには描画や表現の仕方の歴史があって、それらを学ぶことで、描くためのいわば語彙や文法に相当するものを手に入れることができます。自分で一から自己流に描こうとしても、それは見る側にしてもなかなか画像を掴むことが困難です。鈴木晴信の繊細でたおやかな線描画に慣れた目を持つ人がはじめてリュベンスのヴォリューミーな肉体表現を見たとしたら、何やらぼってりした脂肪の塊に見えるでしょう。描き方、作り方は描写対象を伝えるための大事な媒体です。だからこそ、お師匠さんや美術学校のお手本をもとに、どのように輪郭線を引くのか、どのように陰影をつけるのか、画面構成をするのかといった制作上の約束事を学んで身につけることは避けて通れませんし、さらにはそうした既存の手法の学習を経ることで、自分なりの独自の描き方を工夫し、他者と差別化することが可能となります。マニエリズムは芸術的洗練でもあります。

しかし、芸術制作において手法を学ぶのは、ものの見方、聴き方が人工的・文化的な慣習によるところが大きいだけにきわめて重要なことではありますが、しかしまた、手法に頼り、さらには手法を誇示することは芸術制作を既存の文化的コード(約束事)の埒内に押し込めてしまう恐れも伴います。マニエリズムが栄える時代は、文化の爛熟期でもありますが、文化の衰退期かもしれません。そこではいかに自分の手法が面白いのかを追求し、技術を凝らし、見巧者をうならせることが競われます。しかしまたそれは出来合いのルールのなかでの興味であり、練り上げた工夫に対する評価です。芸術の歴史や文化の伝統が作り出した厚みは相当なものがありますので、そのなかで自分のジャンルの歴史を参照させ、自己言及的に意味を発生させることは十分可能などころか、大いに面白いことです。しかし、まあ、それは一種の壮大な楽屋オチのようなものかもしれません。過去の作品や制作手法との関係でものを作るのは否応なしにそうせざるをえないことではありますが、制作のソース(源泉)をあらかじめ人工的にコード化された作品に求めるだけだと、結局のところ、ちょっと気が利いてうまく作られてはいるものの、どこか既視感ある作品になるのではないでしょうか。勿論、そのような既視感そのものが求められる場合もあるとは思います。場合もある、というよりも、おそらくきっと、そうした需要のほうが大きいでしょう。先に、今やハイパマニエリズムの時代だ、と書きましたのも、今日では、いかにも期待に沿った画像や耳に馴染みやすい音楽など、予定調和的な作品が氾濫していて、なおかつそれらを作るために指南をしてくれるサイトや動画、またさらにはアプリケーションがおびただしく生まれているからです。ひょっとしたら美術学校や芸術大学もその片棒を担いでいるかもしれません。今や「いかにもそれらしい」作品こそが求められます。しかし勿論、そのような仕事であれば、人間はもはや生成AIに匹敵することはできないでしょう。

冒頭に記したドビュッシーの言葉は、彼が40歳手前の頃に書いた批評の一節で、『白い雑誌』La Revue Blancheに寄稿されたものです (1901年)。ちょっと気負ったところのある、しかしまた率直な文章です。ベートーヴェンは20世紀の初めには、もうすでに神格化された大作曲家でした。実際、彼の作品の緻密かつ壮大な構築性は圧倒的です。私自身、よくまあこんな複雑な音の世界を作り上げたものだといつも感嘆します。ドビュッシーも10歳からパリ音楽学院で高度な専門教育を受けて、最優秀の若手芸術家に授与されるローマ賞も得たプロフェッショナルです。そんな彼にしてみたらベートーヴェンは勿論偉大な先輩のひとりのはずです。しかし、エリート音楽家としてのドビュッシーは他方で既存の音楽の世界の決まり事に対する反発心もありました。音楽があまりに作り物になりすぎることへの警戒心と言ってもよいかもしれません。彼は音楽は作曲技法の約束事に向かうのではなく、もっと自然そのものに、あるいは聴くことの喜びに向かうべきだと考えました。芸術の歴史が作った表現手法に倣うのではなく、自然から直接印象を汲み取って音にすることを探究します。勿論、ベートーヴェンの田園交響曲も自然を描写しています。たとえばカッコウの鳴き声や雷鳴などを、いかにもそれとわかるよう模倣した箇所もふんだんに盛り込まれています。これはこれで自然に倣った音楽かもしれません。しかし、それを音楽による自然の描写のお手本として学ぶべきとはドビュッシーは考えません。すでに出来上がった描写の手法を自分なりに学ぶというよりも、日の出の情景に自分で立ち会うことのほうが、ずっと新しい発見をもたらすはずだからです。彼が大事にしているのは外形的な模倣ではなく、彼が別の箇所で書いているように「自然のなかにある見えないものを感情に移し置くこと」なのです。

しかし、ここで注意しなくてはならないのは、芸術的慣習を抜きにして自然そのものから直接に芸術作品を生み出せるかというと、それは無理だということです。画像表現にせよ音楽にせよ、それらの見方、聴き方には何らかの約束事の理解が必要です。たとえば古代エジプト人が一点透視の遠近法で描かれた街路を見たら、建物が重なり合って押しつぶされているように思うでしょうし、また逆に、現代の人間がエジプト人の描く池の周りの木立を見たなら、四方に木が倒れているように見えてしまうでしょう。空間表現どころか、一本の線の引き方も、さらには筆の製法も、長い文化的な蓄積が作り上げたものです。音階やリズムにも大変な文化的多様性があり、それらの差を飛び越えて、いきなり音楽の個性を捉えることは困難です(ただ、時間をかければ可能でしょう)。
にもかかわらず、慣習的な音楽語法にどっぷり浸かって、そのなかだけで作品をひねり出す、というのは、やがて既視感(既聴感)しかないマンネリズム(マニエリズム)に陥りかねません。古典音楽の慣習を自家薬籠中のものとしたドビュッシーだからこそ、そこには注意を払ったのではないでしょうか。ドビュッシーは「音楽は慎ましく喜びを生み出すことに努めなくてはならず、やたらと複雑化するなら芸術とは反対のものになる」とも書きます。彼にとって、ベートーヴェンの第六交響曲は自然物の描写というだけでなく、構築物としても相当な複雑なものです。彼はベートーヴェンを全否定しているわけではありませんが、彼の目指したのはもっと単純で、またもっと困難なことのように思われます。人工的構成の規則を知ったうえで、そこから敢えて離れて自然に向かうこと。これは素朴な自然礼讃に戻るということは勿論ありません。ドビュッシーの芸術は、芸術という人工を超えるために、あたかも一種の芸術放棄を行っているかのようです。
手慣れた手法や、さらには自動生成のアルゴリズムによって、いかにもそれらしい作品を製造するのは今や容易な時代です。しかしそれに飽き足りないなら、ドビュッシーの態度は十分参考になるのではないでしょうか。

画像はドビュッシーの交響詩『海』冒頭部分の自筆原稿(Source gallica.bnf.fr / Bibliothèque nationale de France

 

アートライティングコース|学科・コース紹介

大学パンフレット資料請求はこちらから

この記事をシェアする