

アートライティングコース
- アートライティングコース 記事一覧
- 【アートライティングコース】たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません(茨木のり子)
2026年06月01日
【アートライティングコース】たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません(茨木のり子)
こんにちは。アートライティングコース教員の大辻都です。
私事ながらただ今公的な研究期間中にて、学生の皆さんの前に出ることはほとんどありません。ふだんより多少時間に余裕ができているため、読書や映画、美術館巡りなどインプットが中心の生活を送っています。
気づけばひと月近くが経ってしまいましたが、最近の日々の生活をアートライティング視点を意識した日記で綴ってみたいと思います。
どうぞおつきあいください。
5月某日
東京ステーションギャラリーで開催中の「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」展を訪問。日本ではほとんど知られていない画家のはじめての回顧展で、作品150点が展示されている。
スイス人画家ヴァルザーは1908年、ドイツの小説家ベルンハルト・ケラーマンとともに日本を訪れており、とりわけ日本海に面した京都・宮津を気に入って、数ヶ月に渡り滞在した。このおり、歌舞伎の阿古屋などに扮した芸妓の姿や風景画が数多く描かれたが、同時代の日本画とは異なる、淡いタッチの水彩画からなんとも新鮮な印象を受けた。
また、ドイツで舞台美術に関わっていたときの少女漫画風でもあるペン画、弟で詩人・小説家であるローベルト・ヴァルザーの本への挿絵なども興味深い。宮津でのヴァルザーの足跡をたどる映像作品「ヴァルザーを魅了した宮津」も、日本で初めて紹介されるこの画家への理解を深めてくれるのに役立った。
タイトルにある「昏き残照」とはどういうことなのだろう? 作品全体から受ける印象はむしろ色彩豊かである。ヴァルザーはウィーン分離派にも連なるそうだからそのあたりへの目くばせなのかもしれないが、宮津時代の作品に注目がいっていたせいか、あまり意識が及ばなかった。
古い駅舎の煉瓦の壁面がところどころ露出した東京ステーションギャラリーという場も、作品が描かれた時代背景とシンクロしていて、展示の演出に一役買っていたように思う。

5月某日
長らく積読書だったレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読了。
20世紀初頭の作家、ヴァージニア・ウルフと彼女の言う「闇」に注目した章が面白かった。ウルフが日記の中に書いた言葉、「未来は暗い。それが未来にとって最良の形なのだ」を出発点に、ソルニットはその意味を解きほぐしていく。
「私たちはいつも、闇のなかで行動する。自分の行動は予想も想像もできなかった結果を生むかもしれない。自分が死んだずっとあとになって結果が出るかもしれない、多くの作家の言葉が共鳴し合うのはそういうときだ」
闇、あるいは暗さに希望を託していくという点で、ウルフとソルニットは手を取り合っている。勢いづいて同じソルニットの『暗闇のなかの希望』も読み始めた。
5月某日
Kyotographieの一環として、西本願寺の外部施設・重信会館にてイヴ・マルシャン、ロマ・メッフェルの写真展を観る。このふたりが大型写真機で撮り続けてきたのは、20世紀初めに建てられ、今では使われなくなった大劇場や映画館などの廃墟写真。その展示会場に選ばれた重信会館はかつて仏教系大学の学生寮だったところで、往年の学生たちの生活感も微かに残しつつも、今では外壁を完全に覆う蔦が窓から室内にまで伸びているまさに廃墟。時間の澱をたたえた作品と会場とが相互に触媒となり、濃密な喚起力を発していた。
5月某日
先日、御所南のBlue Books Galleryにて開催中の「詩人 茨木のり子展 自分の感受性くらい」を見に行ったおりに買った『詩のこころを読む』を読了。
茨木のり子が他の詩人たちの詩を選び読み解くというもので、これまで知らなかった多くの詩を味わえるほか、茨木の詩論に触れることもできる実り多い一冊だった。
奇しくも、ここでまた「暗さ」の考察に出会う。挙げられているのは牟礼慶子の詩で、茨木の次の言葉にソルニットと響きあうものを感じた。
「牟礼慶子は中学校の国語の先生を長くしましたから、自分自身の内部の暗さ、生徒たちがかかえている暗さをともに敏感に感じとり、暗さがはらんでいる未来に、そっと手を添えているようなところがあって惹かれます。自分をつかみ直そうとする勇気ある人は、おとなになってからも何度でも、こういう暗さに耐えることを辞しません」
詩や芸術をめぐる次のような言葉も気になった。
「言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません」
「この世には面をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。無残に断ちきろうとする強い力がある反面、結ばれよう結ばれようと働く力もまたあるのでした。たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません」
「浄化作用(本文ルビ:カタルシス)を与えてくれるか、くれないか。そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません」


5月某日
昼はKyotographie、夜はサブスクにてベルギーの映画監督バス・ドゥヴォスの『Here』を観る。映画は小さな画面で観るより劇場の大画面で観たほうが全身で味わえるという意見があるが、もちろんこれに異論はない。だが私は最近、PCの小さな画面の前でも映画館の気分を味わえる方法を発見した。PCの画面に対し、自分の体のほうを小さくするよう意識を変換するのである。ちょうど映画館のスクリーンに対する観客の大きさぐらいに。
この発想は、誰が書いたか失念してしまったが、少し前に読んだ演劇をめぐるエッセイの内容をヒントにしている。著者曰く、観客は遠くから見る舞台上の小さな人物を脳内では等身大の人物に置き換えて鑑賞しているというのだ。その逆をはって意識を集中し、自分を小さくイメージしてみるとあら不思議。画面がずっと大きく感じられ、森の中で雨水を滴らせる苔の美しさなども映画館の迫力とともに堪能できるのである。
5月某日
宝塚大劇場にて月組『RYOFU/水晶宮殿(クリスタルパレス)』を2回目鑑賞。今回は待望のSS席3列目で。
三国志がベースとなる『RYOFU』は、後漢時代のダークヒーロー呂布奉先による凄惨な殺戮とヒロイン・雪蓮との悲恋が絡み合った激しいストーリーにやられて終演後しばらく立ち上がれず。
手を伸ばせば呂布演じる鳳月杏様にさわれるほどの近さゆえ、より場面が迫って感じられたのだと思うが、四阿とボートが盆の上を滑るように流れる幻想的なシーンは前回の2階席の方が全景を見渡せ、演出の魅力がよりわかった気がする。
5月某日
J.M.クッツェーの小説『イエスの幼子時代』読了。現在翻訳中で、やはりイエス・キリストになぞらえた人物の生涯を描く小説とテーマが近接するため参考として。聖書関連の暗喩は資料などで調べられるが、キリスト教が身近にある育ち方をしていないので、背後にある意図を読みとれているか今ひとつ自信がない。

5月某日
かつて熱狂したマヌエル・デ・オリヴェイラの作品『アブラハム渓谷』(1993年、ポルトガル)を30年以上ぶりに再鑑賞。サブスクの小さな画面なのに、初回同様3時間23分の長さを感じさせず、往時の感動が蘇った(小さな画面の前で自分自身をもっと小さくイメージする技術は先述した通りでもちろん実践)。フランスの作家フロベールの『ボヴァリー夫人』を下敷きに大胆に翻案した作品で、筋としてはごく淡々としていながらも、場面場面に緩急があり、こちらの興味を逸らさない。人物の表情や動き、それに風景でさえエロティシズムとサスペンスを生み出せるのだと確信した。考え抜かれたカメラワークと演出の妙。
ヒロイン・エマの台詞、「理解より誤解の方が学ぶものが多い」は思わずメモ。
遠景として俯瞰する葡萄園の広がる渓谷が素晴らしく、思わず撮影場所を地図で調べる。行ってみたい。
5月某日
サブスクにて、カズオ・イシグロ原作の『遠い山なみの光』鑑賞。のちの世代、遠い土地にまで原爆の刻印が尾をひく家族の姿をサスペンスタッチで描く。カズオ・イシグロお得意の「信用できない語り手」に最後までまんまと騙されてしまい、長崎で松下洸平と新婚だった広瀬すずが吉田羊になってイギリスで暮らすに至る経緯はいつ出てくるのかとじりじり待ち侘びてしまった。
歯医者に通う道中と待合室で、小津夜景の新刊エッセイ『漢詩の手帖 書庫に水鳥がいなかった日のこと』を読み耽る。意味不明のタイトルだったが、まさに自分がちょくちょく利用する同じ図書館、ちょくちょく散歩で出会うもしかしたら同じ個体の水鳥たちのことであったかとひざを打つ。同じような日常を送りながらこんな面白い文章を生み出せるとは。著者に少しばかり嫉妬してしまう。タイトルだけでなく、このエッセイ集の魅力はここでは書ききれないけれど。
三条の丸善では、この著者が愛読したエッセイのフェアが行われていた。ある作家がどんな作家たちの延長上に文章を書いているのか知るのは興味深い。森茉莉、武田百合子。このへんは合点がゆく。福永武彦、梅崎春生、草野心平、幸田文、筒井康隆、星新一。あと誰だったか。タコについてやイソギンチャクについての本も。

5月某日
近代日本文学研究者で論考『到来する女たち』を出版された渡邊英理さんの4回連続講座「『サークル村』と女たち ——石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学」のうち、先月行われたその第1回目をようやく見逃し配信で聴くことができた。
3人の作家のうち石牟礼道子に関しては、『苦海浄土』はもちろん初期の散文などを愛読してきたものの、あとの2人は一部を除き積読に近かったのだが、「サークル村」周辺での彼女たちの文芸活動とフェミニズムとの関わりを知るにつけ、その重要性を認識するに至る。
第1回目講座の収穫は、聞書きの資質を「他者の声を聞き、他者の声を通じて自らを映し出す他なる者たちとしての『わたしたち』を言葉にする」とする渡邊さんの解釈に触れたこと、そして自己をめぐる森崎和江の考えを知ったこと。
曰く、「他者と溶けあうことでしかそのものとの主体的関係は掴めないことを主張する。共有することで完結する自我」。
近代的な独立した個としての自己とは異なる、他者との境界が曖昧な「多孔的」自己への積極的評価は、最近でこそケアの視点として語られるようになりはじめ、私自身言及することもあるのだが、1959年という早い時期にそうした視点を持ち得たのはすごいことだと思った。

アートライティングコース|学科・コース紹介
大学パンフレット資料請求はこちらから
私事ながらただ今公的な研究期間中にて、学生の皆さんの前に出ることはほとんどありません。ふだんより多少時間に余裕ができているため、読書や映画、美術館巡りなどインプットが中心の生活を送っています。
気づけばひと月近くが経ってしまいましたが、最近の日々の生活をアートライティング視点を意識した日記で綴ってみたいと思います。
どうぞおつきあいください。
5月某日
東京ステーションギャラリーで開催中の「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」展を訪問。日本ではほとんど知られていない画家のはじめての回顧展で、作品150点が展示されている。
スイス人画家ヴァルザーは1908年、ドイツの小説家ベルンハルト・ケラーマンとともに日本を訪れており、とりわけ日本海に面した京都・宮津を気に入って、数ヶ月に渡り滞在した。このおり、歌舞伎の阿古屋などに扮した芸妓の姿や風景画が数多く描かれたが、同時代の日本画とは異なる、淡いタッチの水彩画からなんとも新鮮な印象を受けた。
また、ドイツで舞台美術に関わっていたときの少女漫画風でもあるペン画、弟で詩人・小説家であるローベルト・ヴァルザーの本への挿絵なども興味深い。宮津でのヴァルザーの足跡をたどる映像作品「ヴァルザーを魅了した宮津」も、日本で初めて紹介されるこの画家への理解を深めてくれるのに役立った。
タイトルにある「昏き残照」とはどういうことなのだろう? 作品全体から受ける印象はむしろ色彩豊かである。ヴァルザーはウィーン分離派にも連なるそうだからそのあたりへの目くばせなのかもしれないが、宮津時代の作品に注目がいっていたせいか、あまり意識が及ばなかった。
古い駅舎の煉瓦の壁面がところどころ露出した東京ステーションギャラリーという場も、作品が描かれた時代背景とシンクロしていて、展示の演出に一役買っていたように思う。

5月某日
長らく積読書だったレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読了。
20世紀初頭の作家、ヴァージニア・ウルフと彼女の言う「闇」に注目した章が面白かった。ウルフが日記の中に書いた言葉、「未来は暗い。それが未来にとって最良の形なのだ」を出発点に、ソルニットはその意味を解きほぐしていく。
「私たちはいつも、闇のなかで行動する。自分の行動は予想も想像もできなかった結果を生むかもしれない。自分が死んだずっとあとになって結果が出るかもしれない、多くの作家の言葉が共鳴し合うのはそういうときだ」
闇、あるいは暗さに希望を託していくという点で、ウルフとソルニットは手を取り合っている。勢いづいて同じソルニットの『暗闇のなかの希望』も読み始めた。
5月某日
Kyotographieの一環として、西本願寺の外部施設・重信会館にてイヴ・マルシャン、ロマ・メッフェルの写真展を観る。このふたりが大型写真機で撮り続けてきたのは、20世紀初めに建てられ、今では使われなくなった大劇場や映画館などの廃墟写真。その展示会場に選ばれた重信会館はかつて仏教系大学の学生寮だったところで、往年の学生たちの生活感も微かに残しつつも、今では外壁を完全に覆う蔦が窓から室内にまで伸びているまさに廃墟。時間の澱をたたえた作品と会場とが相互に触媒となり、濃密な喚起力を発していた。
5月某日
先日、御所南のBlue Books Galleryにて開催中の「詩人 茨木のり子展 自分の感受性くらい」を見に行ったおりに買った『詩のこころを読む』を読了。
茨木のり子が他の詩人たちの詩を選び読み解くというもので、これまで知らなかった多くの詩を味わえるほか、茨木の詩論に触れることもできる実り多い一冊だった。
奇しくも、ここでまた「暗さ」の考察に出会う。挙げられているのは牟礼慶子の詩で、茨木の次の言葉にソルニットと響きあうものを感じた。
「牟礼慶子は中学校の国語の先生を長くしましたから、自分自身の内部の暗さ、生徒たちがかかえている暗さをともに敏感に感じとり、暗さがはらんでいる未来に、そっと手を添えているようなところがあって惹かれます。自分をつかみ直そうとする勇気ある人は、おとなになってからも何度でも、こういう暗さに耐えることを辞しません」
詩や芸術をめぐる次のような言葉も気になった。
「言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません」
「この世には面をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。無残に断ちきろうとする強い力がある反面、結ばれよう結ばれようと働く力もまたあるのでした。たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません」
「浄化作用(本文ルビ:カタルシス)を与えてくれるか、くれないか。そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません」


5月某日
昼はKyotographie、夜はサブスクにてベルギーの映画監督バス・ドゥヴォスの『Here』を観る。映画は小さな画面で観るより劇場の大画面で観たほうが全身で味わえるという意見があるが、もちろんこれに異論はない。だが私は最近、PCの小さな画面の前でも映画館の気分を味わえる方法を発見した。PCの画面に対し、自分の体のほうを小さくするよう意識を変換するのである。ちょうど映画館のスクリーンに対する観客の大きさぐらいに。
この発想は、誰が書いたか失念してしまったが、少し前に読んだ演劇をめぐるエッセイの内容をヒントにしている。著者曰く、観客は遠くから見る舞台上の小さな人物を脳内では等身大の人物に置き換えて鑑賞しているというのだ。その逆をはって意識を集中し、自分を小さくイメージしてみるとあら不思議。画面がずっと大きく感じられ、森の中で雨水を滴らせる苔の美しさなども映画館の迫力とともに堪能できるのである。
5月某日
宝塚大劇場にて月組『RYOFU/水晶宮殿(クリスタルパレス)』を2回目鑑賞。今回は待望のSS席3列目で。
三国志がベースとなる『RYOFU』は、後漢時代のダークヒーロー呂布奉先による凄惨な殺戮とヒロイン・雪蓮との悲恋が絡み合った激しいストーリーにやられて終演後しばらく立ち上がれず。
手を伸ばせば呂布演じる鳳月杏様にさわれるほどの近さゆえ、より場面が迫って感じられたのだと思うが、四阿とボートが盆の上を滑るように流れる幻想的なシーンは前回の2階席の方が全景を見渡せ、演出の魅力がよりわかった気がする。
5月某日
J.M.クッツェーの小説『イエスの幼子時代』読了。現在翻訳中で、やはりイエス・キリストになぞらえた人物の生涯を描く小説とテーマが近接するため参考として。聖書関連の暗喩は資料などで調べられるが、キリスト教が身近にある育ち方をしていないので、背後にある意図を読みとれているか今ひとつ自信がない。

5月某日
かつて熱狂したマヌエル・デ・オリヴェイラの作品『アブラハム渓谷』(1993年、ポルトガル)を30年以上ぶりに再鑑賞。サブスクの小さな画面なのに、初回同様3時間23分の長さを感じさせず、往時の感動が蘇った(小さな画面の前で自分自身をもっと小さくイメージする技術は先述した通りでもちろん実践)。フランスの作家フロベールの『ボヴァリー夫人』を下敷きに大胆に翻案した作品で、筋としてはごく淡々としていながらも、場面場面に緩急があり、こちらの興味を逸らさない。人物の表情や動き、それに風景でさえエロティシズムとサスペンスを生み出せるのだと確信した。考え抜かれたカメラワークと演出の妙。
ヒロイン・エマの台詞、「理解より誤解の方が学ぶものが多い」は思わずメモ。
遠景として俯瞰する葡萄園の広がる渓谷が素晴らしく、思わず撮影場所を地図で調べる。行ってみたい。
5月某日
サブスクにて、カズオ・イシグロ原作の『遠い山なみの光』鑑賞。のちの世代、遠い土地にまで原爆の刻印が尾をひく家族の姿をサスペンスタッチで描く。カズオ・イシグロお得意の「信用できない語り手」に最後までまんまと騙されてしまい、長崎で松下洸平と新婚だった広瀬すずが吉田羊になってイギリスで暮らすに至る経緯はいつ出てくるのかとじりじり待ち侘びてしまった。
歯医者に通う道中と待合室で、小津夜景の新刊エッセイ『漢詩の手帖 書庫に水鳥がいなかった日のこと』を読み耽る。意味不明のタイトルだったが、まさに自分がちょくちょく利用する同じ図書館、ちょくちょく散歩で出会うもしかしたら同じ個体の水鳥たちのことであったかとひざを打つ。同じような日常を送りながらこんな面白い文章を生み出せるとは。著者に少しばかり嫉妬してしまう。タイトルだけでなく、このエッセイ集の魅力はここでは書ききれないけれど。
三条の丸善では、この著者が愛読したエッセイのフェアが行われていた。ある作家がどんな作家たちの延長上に文章を書いているのか知るのは興味深い。森茉莉、武田百合子。このへんは合点がゆく。福永武彦、梅崎春生、草野心平、幸田文、筒井康隆、星新一。あと誰だったか。タコについてやイソギンチャクについての本も。

5月某日
近代日本文学研究者で論考『到来する女たち』を出版された渡邊英理さんの4回連続講座「『サークル村』と女たち ——石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学」のうち、先月行われたその第1回目をようやく見逃し配信で聴くことができた。
3人の作家のうち石牟礼道子に関しては、『苦海浄土』はもちろん初期の散文などを愛読してきたものの、あとの2人は一部を除き積読に近かったのだが、「サークル村」周辺での彼女たちの文芸活動とフェミニズムとの関わりを知るにつけ、その重要性を認識するに至る。
第1回目講座の収穫は、聞書きの資質を「他者の声を聞き、他者の声を通じて自らを映し出す他なる者たちとしての『わたしたち』を言葉にする」とする渡邊さんの解釈に触れたこと、そして自己をめぐる森崎和江の考えを知ったこと。
曰く、「他者と溶けあうことでしかそのものとの主体的関係は掴めないことを主張する。共有することで完結する自我」。
近代的な独立した個としての自己とは異なる、他者との境界が曖昧な「多孔的」自己への積極的評価は、最近でこそケアの視点として語られるようになりはじめ、私自身言及することもあるのだが、1959年という早い時期にそうした視点を持ち得たのはすごいことだと思った。

アートライティングコース|学科・コース紹介
大学パンフレット資料請求はこちらから
おすすめ記事
-

アートライティングコース
2026年01月07日
【アートライティングコース】「BBは倒錯的でも、反抗的でもなく、不道徳でもない。それだから道徳は彼女には通用しない」 ―― シモーヌ・ド・ボーヴォワール「ブリジット・バルドーとロリータ・シンドローム」1959年
みなさま、明けましておめでとうございます。アートライティングコースの教員、上村です。みなさまはどのような年をお迎えになったでしょうか。 年々同じような正月ではあ…
-

アートライティングコース
2025年12月25日
【アートライティングコース】女が纏うタカラガイたちが語りかけてくるもの
こんにちは。アートライティングコース教員の大辻都です。 少し前ですが、国際芸術祭あいち2025「灰と薔薇のあいまに」を訪れました。芸術祭ということで一日ではまわ…
-

アートライティングコース
2025年11月18日
【アートライティングコース】「作り方が新しければ、自ずとできたものは新しい」 ──『作り方を作る』佐藤雅彦
こんにちは。アートライティングコース非常勤講師の青木由美子です。 先日、横浜美術館で開催されていた『佐藤雅彦展』新しい×(作り方+分かり方)を観てきました。創作…






















