建学の理念

「藝術立国」を目指して。
良心を手腕に芸術の力で社会を変革してゆく人材を輩出しています。

創設者・德山詳直について

学校法人瓜生山学園・京都芸術大学 創設者 德山 詳直 SYOUTYOKU Tokuyama

1930年5月13日、隠岐の島(島根県隠岐郡海士町)生まれ。戦後間もない1948年に同志社外事専門学校に入学、1950年に同志社大学法学部政治学科へ進学するも、隣国で勃発した朝鮮動乱に抗議する運動に身を投じたことから、数回にわたり逮捕・拘留されることとなった。拘置中に差し入れられた奈良本辰也著『吉田松陰』に感銘し、吉田松陰が終生にわたって德山の思想的な礎になる。近代西欧文明が行き詰まることを早くより看破し、松陰や岡倉天心に深く傾倒しながら、藝術の力による国づくり「藝術立国」を志して、東洋の思想を基盤にした藝術教育に生涯を捧げた。1977年に京都造形芸術大学の前身である京都芸術短期大学、1991年に京都造形芸術大学、1992年に東北芸術工科大学(山形市)、1993年に財団法人日本文化藝術財団(東京)を創設。また、1998年に芸術大学で初めてとなる通信教育課程を設置し、2005年には「こどもこそ未来」を掲げて幼児保育機関「こども芸術大学」を、2010年には東京・明治神宮外苑に藝術の生涯学習機関「東京藝術学舎」を開設した。現在、これらの学び舎で藝術教育を受けた人々が、さまざまな分野で活躍している。2014年10月20日逝去。著書に『藝術立国』がある。

德山 詳直の思い出

皆さまから寄せられた思い出やメッセージをご紹介します。

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思い出・エピソード

40代 / 女性
京都造形芸術大学(通学) / 卒業生

【2014年12月12日に執り行われました学園葬でご投稿いただきました】

私は大学の一期生で、期待を胸いっぱいに入学したのに、設備や教室の少なさにがっかりしていた頃、有志が始めた「理事長を囲む会」に参加した。

理事長とはどんな人なのか?
本当に学生の意見に耳を傾けることのできる人物なのか?
本当に思ったことを言っていいのか?

半信半疑で参加した。

理事長は初めて会った時から、白髪でモジャモジャの小さいお爺ちゃんでした。

私達の意見を静かに目をとじて聞き、いつも、ぱっと目をあけると、「それはすぐ対応しないとね。君達の学ぶ場なのだから」とか、「物(機材)を増やせばいいというものでもないよ。工夫してやってみて、それでも必要な教室ならば、またぼくにそういうてきてよ」と即答で簡潔な回答をしはる。

きれいごとばかりいうて、誤魔化すそこらへんの大人とは違う人なのだと、子供ながらに感じました。
また、やると仰ると実行し、実現しはる...
はたからみてるといとも簡単そうにやってのけはるので、よく友達と冗談で魔法を使ってんねんで、と話していたくらいです。

その後、有志で学生自治会を作り、入学式で歓迎の辞をのべた時も、「この大学はまだ未熟で未完成である」と大きな声で、大学はもっと学生の要望を受け入れるべきだと遠まわしに文句を言ったつもりが、理事長は「感動した!良かったよ」とほめて下さったのを覚えています。

在学中の御恩返しと思い、非力ながら同窓会の役をさせて頂いてますが、卒業して少し大人になって(振り返ってみると)、行動の早さも実現する情熱も、瞬時に見極める判断力と決断力...本当に魅力的な人物だったなぁと感じます。

理事長がこの大学を創ってくれなければ、今の私は存在しません。

心から感謝しています。

思い出・エピソード

20代 / 女性
京都造形芸術大学(通学) / 卒業生

【2014年12月12日に執り行われました学園葬でご投稿いただきました】

「もう少し喋らせて...」

学校でのスピーチ、時間がおしているので(係りの人が)スピーチを中止させようとした時のことば。
とてもかわいかったです。

忘れられないことば(語録)

20代 / 女性
京都造形芸術大学(通学) / 卒業生

【2014年12月12日に執り行われました学園葬でご投稿いただきました】

卒業式での

「(この先)辛いこともあるでしょう。死にたくなるときもあるでしょう。そんな時は、この大学に戻って来なさい」

というお言葉は、強い支えになっています。

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